Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

意表を突かれた気持ち

2019-01-13 | 
エリブフィルハモニーでの演奏会のことも書き留めておこう。これは翌日ベルリンのフィルハーモニーから中継されたので、それがアーカイヴに上がってそれを観てから総括したいと思うが、ある程度予想がついていたので、その視点から書き留めておく。

先ず座席に着くと、予想していたよりも大分指揮台に近く、ルクセムブルクでの距離感とは異なるものの寧ろ管弦楽の最終列への視界はそれほど変わらなかった。最前列でもなく二列目でも、全く問題はなかった。そして何よりも二席買った一席の方は最初から分かっていたが角ベンチになっているので、前列の人は二人で他人同士が座っていた。だから私は三人分を独り占めするというまるで相撲の桟敷の独占のような感じだった。二人分で僅か20ユーロだった。流石シュピーゲル社の本社屋が波止場の根元に佇み、SPDの牙城のようなハムブルクはなんと労働者にも優しいことか。

音合わせからしてルクセムブルクとは発音が明晰だった。これは会場の音響そのものの差でしかないが、それでも楽員の方も自身の音が粒だって跳ね返ってくるとそのフィードバックから自信をもって音を出せるのだろう。これは風呂場効果とはまた違って悪い面が一切ないだろう。

キリル・ペトレンコが出てくるのが遅かった。一度上手から出かけたようで拍手が聞こえたが再び引っこんだのかもしれない。ペトレンコの場合はどちらかというと間を延ばしてという傾向はなく、ルツェルンでも若干遅れていたがあれはユジャワンが遅らせていたと思った。兎に角出てきて期待感が萎まないうちに早く始める。

最初から指揮振りが自由になっていて、ルクセムブルクでは楽譜に落とされ続けた視線が楽員の方に向けられるようになっていて驚いた。そしてその指揮振りも遥かに自由になっていて、明らかに両者に繋がりが生じていた。まさしくNDRの記者が私と同じように初日から同行していたような書き方をしている。

つまり予想していたように初日には勧進帳のように一人一人の腕試しを兼ねて楽譜にその一部始終を記憶していったのだと思う。ドルトムントではどうだったのか?少なくともここではその音響も影響してか、特に「ウエストサイドストーリー」でフルートソロなどが出てくると明白に且つゆったりと深く歌わせていた。演奏者本人の自信でもあるだろうが、指揮者がそれを認識して振っているともいえる。始まりからして自由度と許容度が拡大して、「共に演奏するというムジツェイーレンのモットー」に近づいてきていて、ペトレンコがプロフェッショナルな楽団でものにする時の在り様そのままなのである。中一日のこの量子的跳躍には驚かされた。明らかにペトレンコが最初から立てた流れ通りとしか思えない。余談であるが、このツアーが始まるときに合わせるかのようにバーデンバーデンではガティの代わりの他の指揮者が指名された。もしやペトレンコとかメータが代わりを務めるかとも思ったが、なにか判断がそこにあったのかなとも邪推させた。勿論バーデンバーデンは大きく期待したであろう。

そうした影響で、ダイナミックスにおける幅が格段に広まった。まだまだ弱音で音楽が出来るだけの抑制は効いていないが、少なくとも楽員として如何に小さく音を通らすことが出来るか、その為にはお互いに聞きながら合わせないと話しにならないことが実感できたのではなかろうか。開演前のサウンドチェックでもこの方向へと練習が向かったことは予想可能だ。それから比べれば初日は勢いの音を強く出す勝負のようなところがあって、全く逆方向へと意識が進んでいた。

それによってバーンスタインの音楽の体臭が初日よりも強く出ていて、いい演奏になっていた。同時にサムバやマムボのリズム的な軽快さが冴えていた ー ペトレンコもルクセムブルクでは歌っていなかったが声がよく出ていたようだ。こうした特徴が次のティムパニー協奏曲で活きない訳がない。弦楽の奏法も余裕をもって正確に丁寧に鳴らされるようになって、一体初日はなにだったのだろうと思わせた。二楽章の嘆きも深く呼吸をして聞かせた。

ソリストのヴェンツェルがアンコールに応えて練習曲を演奏した。ばちを持ち替え引き換え好演していたが、この人の最大の問題は弱音のコントロールだと近くで見ていてよく分かった。ベルリナーフィルハーモニカーの奏者のようだが、もう少し精進してもらいたいというのが正直な感想だ。世界中の一流管弦楽団には沢山の名手がいる。

「春の祭典」は、精度が上がると同時に、ここでもテムポとその拍取りの深さに気付いた。つまり初日にはどんどんと進めていったものが、十分に歌えているところが増えて、イントロダクションも木管楽器に合わせたテムポ設定というよりも拍取りをしていて、それこそ顔を見ながら合わせていた。初日には全くしていなかったことである。装飾音等も綺麗に決まり、同時にそれが音楽的な緊張になるのは流石だった。新聞評にあるように、フィナーレでも体を固くして固く振り若しくはコムパクトに振っていて、初日の技巧よりも更に上の指揮をしていた。そのテムポ運びや音楽づくりは一部の終曲でも秀逸で、ペトレンコのストラヴィンスキーの見事さを改めて思い知らされた。フィナーレの見事なテムポ運びも同様で初日よりも落ち着いている分その迫力は減少したが、「春の祭典」がこんなに音楽的に面白いと思わせたことは未だ嘗てなかった。

批評は一通り出たようだ。何をどのように伝えるか、どのように評価するかなどはジャーナリストにとってもなかなか難しいと思う。それは、可成り技術的それも指揮技術的なことへの造詣を問われるからでもある。更に楽団の特徴からその腕を見極める必要もあるからだ。それをもとに一体何を読者に伝えるかという腕が問われるからである。

いつものように写真を撮っていたら隣近所が湧きだしたのでどうしたのかと思ったら、ペトレンコが楽員をこちらに向かせた。意表を突かれた感じになった。いつも出来る限り見られないタイミングで秘かに撮影するのだが、見つかってしまったか。アンコールの「マクベス夫人」にこそ一番プロとのそれもミュンヘンの座付楽団との差を最も強く感じた。



参照:
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
指揮芸術とはこれいかに 2019-01-08 | 音
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