Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

賞味期限を早める試み

2022-11-03 | 文化一般
承前)「音楽劇場とはなにか」とタグをつけた。今回の新制作「コシファンテュッテ」にはそれが明確にされていないと書いた。それでもダポンテの台本からすれば二百年以上後の現在に舞台が移されていて、オペラ愛好家には「読み替え」とされる。しかしそれは音楽劇場が意味するものとはまた異なる。大きな意味で「レジ―テアター」つまり「演出劇場」となるものだろう。

「読み替え」とは舞台設定を主に現在に移植するもので、作曲家が生きた創作時期に重ねるものは一般的な演出手法であって、「読み替え」としての抗議は最早起きないスタンダードなものとなっている。なぜならばその対象とされる上演作品の多くがその様に「読み替え」をしなければ創作者即ち作曲家の意思が汲み取れない古典となってきているからである。

例えば楽匠ヴァ―クナーが舞台祝祭劇「指環」において、同時代の資本主義の問題点を神話を舞台に描きながら、その演出には数えきれないギャグを挟んだように、そのもの同時代性を以て具象的な芝居で今日の劇場空間に何らかの世界を描けるという事はあり得ないのである。

そうした「読み替え」で目されるのは、劇場の聴衆が若しくは舞台の演者らがその芝居を体感できるかどうかである。例えば台本中の貴族が行う所作によっての意味合いを現在の我々が同様に感じ取り、それによって感情移入さられるかどうかが問われている。

さて、先の批評で問題視されたのは、そこで肝心な主客転換が演出的にも音楽的にも起きていないという事だった。所謂ドラマテュルギーにおける裁定となる。そこを読み返してみれば、教えと教えられるの間で「啓蒙」されるというそのものこのオペラ作品の本来の意志であったろう。勿論今日の我々はその時代には生きてはいない。その様な個人と政治も存在しない。これは、音楽的に批判されたペパーミントのアコードの不在にも繋がっている。

当然の事ながら演出は、そうした現実を認識させつつ、それでも作曲家の音楽からの本質を提示することが目的となる。評者は、どうも半世紀前にベーム博士が指揮したような正確さと丁寧さを求めている様なのだが、既にその当時演出面においては舞台上のマリオネット化が進んでいた。要するにオペラとしての効果を失いかけていたことになる。

オペラとしての効果を失うという事は、舞台作品として作曲された音楽を音楽会形式で演奏して同じ効果を生むという甚だ創作の世界から遠のくような結果となり、愈々その音楽作品のエンタメ需用化へと一気に進むのである。勿論その創作の純音楽としての瑕疵が明白になり若しくは賞味期限切れの時の流れを進めるのみとなる。

そこで音楽劇場としての概念が有用となってくる。最終的な目標は、名作とされる古典作品を今日に現実感を以て蘇えさせることにある。我々にとって重要なのは、貴族の性の不道徳観を描いて啓蒙思想を知らしめることでもなどではないのは当然である。創作意思を認知しながら、その創作の場に近づきたいのである。それは劇を創作するという意味においては嘗ての作曲家の狙いははっきりしていて、まるで考古学の様にその過程をなぞって行くことが目標となる。音楽劇場はそれを如何に前提となる劇場効果の中で提示することが出来るかでしかない。(続く)



参照:
紙一重の読み替え思考 2022-09-17 | 文化一般
根源のフェークニュース 2022-05-10 | 文化一般
コメント
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