Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

励起させられた覚え

2019-08-02 | 
久しぶりにワイン山の上部を走り抜けた。走ると言っても駆け足に毛が生えたようなもので、復路のアスファルトで少し速度を上げただけに過ぎない。それでも20分運動をして汗を十分に掻けたので満足だ。日が昇ってから日陰の無いところで走ればそうなる。

ロンドンからのプロムス中継を聞いた。最初にシベリウスの交響曲一番を持ってきていたが、これまたミュンヘンの放送交響楽団の欠点丸見えの演奏で些か気の毒だった。金管が外したりというのは横着している訳ではなく仕方なく、ある意味交響楽団が代わりの優秀な金管奏者を探すことぐらいはそれほど難しい事ではない。しかし弦楽陣が指揮者の意図しているように歌えないとなるとやはり致命傷である。

元々BRの交響楽団はクーベリック監督時代も対向配置の難しさをそれほど克服していたような記憶もないが、ヤンソンス指揮になって強引なドライヴでどうもこの楽団の弦楽陣はとても悪くなった。今回のネゼサガン指揮でも弱弱しくなぞるのが精一杯で、普段から単純な合せ方をしているとこうなるのだろうと思った。流石にコンセルトヘボー管弦楽団辺りになると、そうした後遺症が生じているとは誰も語らないが、それでも今はシャイー時代よりも遥かに下手になっているのは確かである。カンフル剤は、どうも本人の心臓に来るだけでは無いようなのだ。

どうしてもフィラデルフィア管弦楽団が演奏していたらここはこうここはこうと理想的な響きが頭に浮かぶので、余計に下手に聞こえて仕方がない。そしてプロコフィエフのあとに持ってきたのが「ばらの騎士」組曲で、これは酷い演奏だった。ペトレンコがバイエルンの座付をカーネギーホールデビューの為に連れてきて、二回のコンサートを開いた二番目がコンサート形式の「ばらの騎士」でその時に客席に現れていたのがネゼセガンだという。しかしこの演奏を聞くと一体そこでなにを聞いてどのようなコンセプトで演奏することにしたのか皆目わからない。管がブロードウェーの様に叫び、とても品が悪い。これで全曲指揮しようとすれば可成り安物の上演になる。

さて今晩は昨年のルツェルンの音楽祭からベスト中継録音のアンコール放送がある。当日そこに居て未だに聴けていないペトレンコ指揮のポール・デュカ作「ラペリ」が楽しみだ。ファンファーレに続いて演奏されたこの曲は名演奏で、春にベルリンで三回、ザルツブルクで一回、演奏して五回目の演奏だと思うが完成度の高い大名演となった。だから私の席の並びの人がフライング気味にとは言っても指揮棒が振り下ろされてしばらくたってから拍手をし始めたのでついつい引っ張られた。映像も生放映されたのでその時の指揮者の表情を確認したいと思うのだが、今回はラディオ放送である。それでも楽しみである。

二曲目のユジャワンをソリストとしたプロコフィエフもここまで合わせるかと言う演奏で、こちらの方は映像を観たが、更に優れた音質で集中して聴いてみたい。後半のシュミットの交響曲四番がまた大熱演で聴きたいのだが、残念ながら今回は放送されない。お預けである。日曜日にスイス国内で放送されている回顧シリーズでもプロコフィエフのみのようだ。
Yuja Wang⭐Interviev with ArteConcert at KKL


ベルリンのフィルハーモニカーのサイトで確認すると、南ドイツ新聞の評が取り上げられていて、「とどろくイヴェント、ペトレンコの抑えることの無い音楽的情感と明晰な演奏実践は、管弦楽団と観客を励起した。」とある。付け加えることは何もない。あのオープニングシリーズで音楽的に頂点の晩だったと思う。



参照:
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
初代改め元祖の方がよさげ 2019-08-01 | マスメディア批評
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