Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

イヴェントの準備をする

2019-05-16 | マスメディア批評
週末の旅行の準備を始めた。宿の位置確認など、ブレゲンツの祝祭劇場までの経路を研究して印字した。先ず問題はなさそうだ。終演後の食事ぐらいを考えておけばよい。燃料も価格を監視しておこう。

なによりも大切なのは演奏曲目のマーラー作曲交響曲八番の準備である。前回はミヒャエル・ギーレン指揮の今は無きSWF交響楽団での演奏会だった。当時はネットにおいても八番などの書法よりも六番の書法などにその指揮が合っていてと話されていたのだが、実際に聴くと第二部での弛緩気味のところがあったが、息切れすることは無かった。それはそれでその抒情性と諸行無常感がとてもよい感じだった。しかしどこかではCDで馴染んでいたテンシュテット指揮の演奏が好ましくもあった。

先週のヴィーンでの演奏会の放送を聴くと、指揮者のメストはそうした粘りも無しにひたすらクリア―に音楽を流していたが、諸行も無しにただ無情な感があった。そして、ギーレン指揮のCDを流すと、やはりこちらの方が正しいと思った。往路の途上で何を耳にするかが問題であるが、CDをリッピングなども面倒なので小澤指揮の実況録音でもダウンロードして行こうかと思う。

小澤指揮のマーラーはそれなりの評価があったのだが、当時に比べて上のメスト指揮のそれなどと比較となると全くその評価の尺度が変わっているのに気が付く。もう少し研究してみたいが、第一部においても以前とは異なるところへと関心が向かう。そのように解釈自体が変わってきているだろう。

キリル・ペトレンコのブレゲンツでの練習風景の報告などを読むと、そしてその演奏を予想すると、ペトレンコ指揮のこうした大掛かりな作品では本当のイヴェントが催される。それは二月の「ミサソレムニス」においてもそうで、八月の就任コンサートの第九、特に翌日のブランデンブルク門でのオープンエアーは正しくイヴェントだ。そしてこの千人の交響曲も初演の時は大イヴェントだった。「ミサソレムニス」、第九の流れをくんでいる。そしてそれは彼の指揮の実力からして音楽的に壊滅的にはならないどころか高品質なものが期待される。そこで思い起こすのがやはり大掛かりなものが得意だった小澤指揮でのサンドニ大聖堂での演奏会中継などである。

そして、ペトレンコが両親と一緒にシベリアから移住して、僅か二年ほどピアノ科に通い、暮らしていないボーデン湖で待ち構える級友や地元の人たちの熱意が伝えられるとそれだけで胸が一杯になる。2008年にフリーランスになったころに、地元の交響楽団がマーラーの九曲の交響曲を演奏するプランが出来上り、当時次なる分野へと進み出ていた指揮者と合意した。その後はシカゴやメト、リオン、フランクフルト、ケルン、ハムブルク、ドレスデンなどでの客演を繰り返していたが、2013年以降は周知の通り一挙に世界の頂点へと上り詰めた。そして、昔の同窓生で今回もティムパニーを受け持つクレバーが語るように「忙しいからいけないよで済んでしまうよね」なのに、約束を守って義理堅く最後までやり遂げるということで、今度は地元の方も意気に感じて成果を挙げようと大きなイヴェント化しているようなのだ。

まさしく、「ミサソレムニス」などがアマチュア―合唱団の熱意によって今日まで受け継がれてきたことに相当していて、グスタフ・マーラーにもそれを継承する意思があったのだろう。そしてペトレンコはこの曲を来年の監督としての最後のアカデミーコンサートに指揮する。もうこれだけ考えるとお膳立てが整ってしまう。なるほどそうした周辺事情と音楽芸術がどのように関係するのだという問いかけがあるかもしれない。しかし再考すれば、如何にそうしたハレの場とか本当のイヴェントというものが ― つまり高額を叩いて赤絨毯が敷かれるというものではない ―、コマーシャリズムの音楽興業の中で廃れてきていたかに気が付くことになる。それは、奇しくも彼を見出したバッハラー氏がインタヴューに答えて、ペトレンコの「若く真っ直ぐに見詰める姿勢にこれだと思った」と語っていたが、こうしたイヴェントが成立するというだけで、この指揮者の並々ならぬカリスマ性が示されているということではなかろうか。




参照:
Ein risikoreiches Unternehmen, Vorarlberger Nachrichten vom 10.5.2019
総練習に向けての様子 2019-05-15 | マスメディア批評
本物の一期一会の記録 2019-05-13 | マスメディア批評
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