Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

本物の一期一会の記録

2019-05-13 | マスメディア批評
ベルリンからSACDが届いた。商品と一緒に送り状にカタログが添えられている。フルトヴェングラーの22枚組が先頭に載っているが、バカにするなと言いたい。一体あの価格で何を言っているのだ。気を静めて先ずは御開帳である。

セロファンが張られているので安全だ。開封して表紙の表の波模様が凹凸になっているのは予想外だった。そこに印刷されているキリル・ペトレンコの写真も金を掛ければ三次元に出来た。表紙裏にSACDが挟まれている。コードを探すとSACDを剥がした下に二種類のコードが書かれていて、上はオーディオファイルを落とすもの、下は通常のDCHの一週間券である。

作曲家の写真に続いて、ベルリナーフィルハーモニカーからの巻頭の言葉があって、あまりこなれたよいものではない。そして悲愴交響曲の直筆の表紙の写真からと曲のタイトル、楽章表記、楽器編成などがあって、解説が始まる。

ペトレンコのドラマテュロギーである現在ミュンヘンのマルテ・カースティングの文章である。いつもの調子であるが、興味深かったのはこの録音の発売に寄せたペトレンコの考えに触れた部分である。内容自体はDCHの引用なのであるが、こうして纏めると次のようになる。

過去の数多の録音の意味と、今回の録音の発売の関係は、一言で言えば一期一会となる。過去のそれも歴史的なものは遺された記録であってそれなりの価値があるが、一体しばらくすればここはこうやると既に変わってしまっているものを記録に留める意味との共通点がまたは相違点があるかどうかということでもある。つまり、ライヴ録音と言えども編集されていることからその完成形が正当的とは言えないとして、今まで録音を殆ど残していないが、今回のような特別な機会であり記録と残すに足るものだと感じたと発言させている。若干こじ付けのような感は免れないが、同じような状況があれば今後もあるしかもしれないと含みを持たせている。

同時に悲愴交響曲はしばらくは指揮しないとしている。充分にやり尽くしたからである。このベルリンでの二回、そしてバーデンバーデンでの一回となるが、最後のそれを聴いて、それは容易に理解できることであり、三楽章の後での自らの胸の鼓動を思い起こす。ムラヴィンスキー指揮以来の悲愴交響曲であったが、ベルリナーフィルハーモニカーが一楽章の展開部を完璧に鳴らして再演するのは何時のことになるだろうか?ベルリンで両日座った人と同じように忘れ得ぬ思い出となることだろう。その意味からすると、このSACDの内容は皆の記念撮影集合写真のような意味を持っていて、途中経過のスナップショットでもあるこれは、生演奏を体験した人にはそのまま出来ているところも出来ていないところも思い出であり、体験していない人にとっては一つの本物の記録なのかもしれない。



参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
ギリギリの悲愴交響曲 2017-04-06 | 音
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