Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

再びヴァルキューレ二幕

2018-01-20 | 
承前)再び楽劇「ヴァルキューレ」二幕である。四分の三と八分の九が組み合わされた前奏曲とか一場冒頭のホヨトーホの掛け声の見事さに聞き落としてしまうのだが、このフリッカとヴォータンの掛け合いが素晴らしい。ハ調を囲むような前半と前後の流れも素晴らしく、その中心部が「指輪」で特筆部分となっているのは丸山真男がDemutと自らの総譜に書き込んでいるところでもある。丸山はフルトヴェングラーの録音を参照しながら語ったようだが、その耳は必ずしも指示動機云々の博学的なものではなくて、この日本を代表する学者の美学的な感性としてもよいと思う。この箇所は、ドイツ語叙唱の行き着いたところではないかとも思う。その管弦楽の付け方や音楽の綴り方に楽匠の技が実感できる。勿論丁寧に演奏されなければ台無しである。

二場がこれまたハ調を中心にその所謂「窮境」の動機を上手に使いながら、今度はヴォータンが主となってとブリュンヒルデの絡みとなる。その伸長された動機などの変奏の扱いが腕の見せ所で、和声的にもそのまま進めば叙唱として合わせ難くなる限界へと進んでいる。如何にそれが音楽愛好家の耳に届くかという箇所であろう。ホルンとバリトンや、またエルダの動機などが出て来る見事さは究極の技ではなかろうか。最後にはブリュンヒルデの歌となり動機が散りばめられて先を暗示しつつ3拍子が戻って、三場へと進む。

因みに2015年のバイロイトでの演奏は最もコッホの歌が冴えていたのだが、今こうして聞き返すともう少しどすの効いた通常の声の方が管弦楽をダイナミックに付けれるところが少なくなかったと思う。反対に叙唱として合わせるフォスターの音程も上下行するような楽想ではないので最も抵抗が無く安定して響く。ここがこの年の「ヴァルキューレ」を成功に導いた気がする。

そして三場に移ると今度は所謂「逃走」の場面とされるジークリンデとジークムンデの歌となるが、動機的には一幕で馴染みのあるもので、寧ろここでは管弦楽法的な拡張とその歌との絡みに興味が向かう。四場へと移る移行の黄昏感はまだしも2015年のバイロイトのカムペの歌も記憶に残っていたものよりは弱い所もあり、条件の異なる舞台と奈落の緊密な繋がりが今回は楽しみだ。

四場でブリュンヒルデが音楽的に下りてくるというか ― 要するにジークムントは天には上れないということになる ―、ジークムントの前に現れるのだが、そうやって死の動機以外にもとても不思議な効果を出していて、この場全体を通して多層の和声の動きとか管弦楽法とかいうよりも音場が出来ていて、下手な演出では到底表出不可能な効果を生んでいる。楽匠の偉大さを見るならばここだろう。2015年のバイロイトの最も成功した演奏実践がこの場面かもしれない。管弦楽も見事で座付き楽団の楽員が集まったとは思えない音楽を奏でていてお見事である。このような響きはバイロイト祝祭始まって以来の成果だと思う。

五場は殆ど付け足しの小フィナーレの様なものだが、色々と湧き出てくる動機を抑え込みながらとてもコムパクトに三幕へと第二夜へと繋がるよう工夫をしている。実質的には前の四場で二幕は終わっているとしてもよいのではなかろうか。それほどに音楽的にも二場、三場、四場は注目に値するだろう。

なんとなくこれで大まかな設計図は見えたのだが、細部のアナリーゼまでには至らなかった。故岩城宏之ではないが幾ら楽譜面が画像として浮かんでも音符が暈けてはっきりしないところが多過ぎる。それでも2014年にこの楽劇を初めて体験した時よりは大分音楽が見えてきた。ややもすれば第二夜「ジークフリート」の後半のような楽劇にはなっていないので、またこの一幕のようなあまりにも俗受けを狙ったところがあるので苦手であったこの作品を十二分に体験する準備がやっと出来たろうか。この「ヴァルキューレ」に関しては週明けに放映があるので、いずれにしても更に理解が深まる筈だ。指揮者キリル・ペトレンコにおいてもなかなかものに出来なかった作品であるが、今回のニーナ・シュテムメ、アンナ・カムペそしてヨーン・ルントグレーンの配役で上手く行かないなんて言うことがあるだろうか?



参照:
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
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