Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

次から次へ皹の入る芸術

2007-07-28 | マスメディア批評
ドイツ文化の殿堂バイロイト音楽祭の将来を占う公演の新聞評を読む。エレノーレ・ビュンニンク女史によって書かれ、本日の朝刊文化欄に掲載されたものである。

楽匠ヴァーグナーの曾孫の演出デビューは、バイロイトが再びヴァーグナー演出の主導権を採るのに十分に意図され無かったのか?

ナチスの過去を舞台に載せて、戦後の歴史を間違うことなく示したバイロイトにおいては少なくとも開拓的な初の上演ではなかったのか?

従来の惰性を打ち壊し、イコーンは剥ぎ取られ、他の人種は隔離され小道具のように火にくめられる手に汗握る起訴の場ではなかったのか?

遅すぎた昼食と言う無かれ、ナチスに利用されたヴァーグナーの音楽は、今後もこのテーマを抜きの上演などありえないからだ。既に他の次世代の末裔達、ニケ・ヴァーグナーやエファやゴットフリートヴォルフ・ジークフリートはヴァーグナー家の責任問題に対処しているが、監督の父親のお墨付きを以って、初めてカタリーナ・ヴァーグナーが、ここバイロイトの同志を攻撃することを許された。

「フィナーレにおける巨大な人間の像の中で声をあげる金の鹿を見落としたとは、また不愉快で厳しく分別のある靴職人親方ハンス・ザックスが火の中にくめた実行者であったことを、見落としたとは言わせない」

コンヴィチニーがやったような、ノイエンフェルスがやったようなことはここでは嘗てなかったどころか、ヴァーグナー邸のお茶の席で、その本題へと至ることもなかっただろうと綴る。

この喜歌劇とされたその危ない三幕において、ハンス・ザックスの取るに足らない助けによって、ニュルンベルクの師匠達はメタルのコンテナーの中に移される。それらは、明らかにブロンドの演出家と小男の指揮者を中心とするみすぼらしい服を纏った舞台芸術家やデザイナーなどの演出チームの面々なのである。

その若者たちは坂を上がる途上、何度もお辞儀をして、金を徴収されて選別処分されるのである。ここで場内に笑いが起こったと言うが、その次の瞬間、それが祝祭的な火に包まれるとき、そのどよめきは凍えたと報告する。ザックスとその一味は控えめに声も無くハイル・ヒットラーと伸び切らない手を空に掲げた。

インタヴューで既に表明していたように、合唱団の処理を以って、初めて父ヴォルフガンクの信頼を勝ち得ていたと言うこの演出は、実際に舞台から合唱を占め出した。懐古的な全音階が快適な長調の調べとなるナチス・ドイツのオペラとなったのであった。

テンポに配慮した若い楽長のヴァイクルの指揮は情感に溢れ、緊張を欠いたダイナミックスで、ややもするとバランスを崩し、殆どふらふらとしていた。ただ一箇所、三幕への前奏曲のエレジーが褒められる。

寄宿舎の教会では、腸詰や食料が描かれた祭壇に蝋燭が灯されて、美しい芸術の喜びに、12人のドイツ精神の聖人達が張りぼてとして現れる。ヘルダリン、シャドウ、デューラー、ベートーヴェン、シンケル、クライスト、シラー、ゲーテ、バッハ、ヴァーグナー、レッシング、クノベルスドルフである。ハンス・ザックスを除く、千年物の黴の生えたガウンを羽織り職人の育て親たちは、黄色いレクラムの文庫本を手にして、体現した知識を語るのである。それに対して、ザックスは裸足でタバコを煙突のように燻らして若者の息吹く嵐に共感するのだ。

フランツ・ハヴルタにはザックス役は音程が高過ぎるが二幕はそれが成功していたとして、また終幕の「ドイツの親方達への賛美」では声が尽きたのも当然の結果とする。

そして全体の不十分な稽古によるカオスは、第96回バイロイト・ヴァーグナー祝祭開催の特別な意味と価値を散々な結果に終わらしたとする。

この美しい芸術の世界に次から次へと皹が入り、世俗の形態がそのアイデンティティーや形が徐々に変わっていくように、舞台はあれやこれやのスプラスティックで張りぼての頭が命を得る。それは最終的にブリューゲルや馬鹿者においてヨハニス祭が行なわれるように、レクラムの文庫本や靴が雨のように降るのを見たに違いない。

二幕のフィナーレだけが父親を越えたかもしれない景である。そこでは老いた親方が猥褻なカンカンを踊り、リヒャルト・ヴァーグナーの鼻先の石膏を落すのである。

因みに、この批評の題名は、「ヴァーグナーの鼻を携えた道」となっている。

これを要約して読んで、改めて一言だけ付け加える。レクラムの黄色の文庫本が知識や教育を表わしていることは想像されるのであるが、それは上のドイツ精神の聖人のものであると共に、啓蒙主義を具象しているのだろう。そうすると、そこ彼処に散りばめられた意匠は何を意味するのか?

あまりにも大雑把な演出コンセプトは、付け焼刃な知識や固定観念故の結果ではないのか?そもそも基本コンセプト自体がヴァーグナー邸の庭の実りの木の枝のように、定まらず風に揺らいでいるような趣があって、言語による構造主義に対する思潮や批判すらその細部から浮かび上がっている様子は、この批評を読むと皆無なのである。

その鼻先が欠けたとするならば、バイロイトに於ける芸術が継続して存在する意味合いすら危うい。まさにこの点が芸術監督に求められる解決課題であり、優れた演出家などは幾らでもいるのである。ヴォルフガンク・ヴァーグナーが、「エファに後継者としてやらせるぐらいならば一層のこと投げ打ってしまう方が良い」と言うように、その方が良いかもしれないと思わせる批評であった。



参照:
"Weg mit der Wagner-Nase!" von Elenore Büning, FAZ vom 27.7.07
「聖なる朝の夢」の採点簿 [ 文化一般 ] / 2005-06-26
アトリエのビッグシスター [ 女 ] / 2007-07-26
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
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