Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

空虚な文化行政の体験

2006-06-06 | 文化一般
常連席でサッカー談義に花を咲かせた折、その一人が当日フンデルトヴァッサーの展覧会に行ってきたと話をしていた。ちょうどそのスクェアーの中にある、青年劇場で日本のユネスコ世界遺産の写真展が開かれていて、そこにいた話をした時の事である。知っていたら、寄っていたのに残念だったと言っていた。

フンデルトヴァッサーの展覧会の事は知っていて、そのチラシなどを見て、オーストリアにはテーマパークなどがあることを知った。こちらもそこにいる用件があり、恐らく有料であろう展覧会に行くのは諦めた。それで、そのトラックの運転手で、未婚と言う彼が何に惹かれてフンデルトヴァッサーなのかと興味を引かれたが、酔いが回っていて聞きそびれた。

職種やそのあり得るべき教育のレヴェルで、その人を測る事は出来ないが、トラックの運転手と言うとどうしても一般的に荒っぽいイメージを持つことが多いかもしれない。実際は様々で、どちらかと言えば列車やバスの運転手よりも自由な時間を愛する趣味人が多いのだろう。

一方フンデルトヴァッサーと言えば勿論絵画もあるが、それがカレンダーとなっていていつも安売りの日まで売れ残っているとの印象が強い。毎年のように売れ残っていると言うのは、カンディンスキーのカレンダーと同様に人気と知名度が高い証拠でもあるのだろう。建築の数々は比較的知られているようであるが、いまだ嘗て実物を確かめてはいない。この芸術家に関しては、もしかすると中等教育課程で扱われることも多いのかも知れない。

しかし、展覧会を訪ねる重要な動機は、そうした教養主義と言うようなものではなくて、見てやろう、認知してやろうと言う意識であったのは、そのドライヴァーと話をしていて良く分かった。それも、けっして力の入った様子も無く、乾いた体に水がしみこむような風情が良かった。

さて、当方が係わっていたのは、ジャパン・ファンデーションがケルンの日本館を通じて日本文化を紹介している催し物であった。文化広報活動の一環として、英国ならブリティッシュ・カウンシル、ドイツならゲーテ・インスティテューションが担当するような文化事業であろう。特に後者の文化ポリティックは多少なりとも知っている。

今回は、各地の独日協会へと回されて来た行事のようで、領事や市長なども出席して開催された。相当する各地の文化財の写真が広いホールの六十枚ほど並べられた。白神山地や屋久島の自然や神社仏閣に、姫路城に二条城、原爆ドームの写真が網羅されていた。

殆どの写真がその依頼に則って撮影されていて、それを取り巻く環境を写すではなく、即物的に対象に迫るでもなく、美学的な何かを訴える事も無い。絵葉書と変わらない出来なのである。

例えば、原爆ドームの写真も被爆者が水を求めた太田川に足を入れて写しているのは分かり、内部の保存のための補強の鋼材も写されて入るのだが、敢えて折衷的な立場で何も訴えないように撮影されている。

その他の自然や建造物もこのような客観主義で撮影されることも珍しい。つまらないからいけないとは言わないが、あまりにも不気味なのである。文化行政のあり方を反映しているのだろう。

先のトラックドライヴァーに戻れば、彼がこれを見たら初めのうちの物珍さを過ぎて必要な情報を得た後、なにか空虚な世界観に襲われるような気がする。求めるべき世界観が伝わらないからである。そこには、原生林の神々しさも、神社仏閣の静謐も、それを取り囲む森の深遠も切り取られていない。

偶々、望む事も無く、日本の文化行政を覗いたようにも感じたが、途轍もなく空虚で気分の悪い体験であった。
コメント (2)
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