Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

荒野に生えた葡萄

2005-04-29 | 歴史・時事
大銀行家ジァメ・ド・ロートシルトの記事が載っている。ロシアの政治社会歴史資料所で、ハインリッヒ・ハイネがカール・マルクス夫人ジェニーに送った手紙がこの度発見されたと言う。カール・マルクスに言わせると、「七月革命政府は、フランスの富を搾取した株式会社」で、その社長であるオルレアン公ルイ・フィリップ王の退位により1848年の二月革命がなされると、国債も没落する。今回、ハイネの失った財産がその国債による事が確認されたらしい。既に見付かっていたロートシルトからハイネへの手紙にフランス国鉄の債権などを理由に国債の購入が薦められている。更に没落後に今度はハイネからロートシルトやその妻に、「私は犬のように病気で、馬のように働いて、今や教会の鼠のように貧しい。」と苦情を認めている。

フランクフルトのゲットー出身でイスラエル建国まで経済的に支えたロトシルド家の歴史は、近代の経済史そのものであるのは周知の通りである。しかし、こうしてハイネ研究の畠からこのような史実に光を当てられると、詩人のパリへの亡命やひいては近代の思想と経済の構図が浮き彫りになる。更にトリアー出身のマルクスの父ヘルシェルが既にプロテスタントへ改宗していた事も見逃せない。

バロン・ロートシルトは、既に死去していた兄のナターンを見習ってその子息が跡を継ぐワイナリーの近くに、経済難により競売に出ていたメドックの土地を最晩年の1868年に獲得する。現在もラァフィット・ロートシルトとして高名なこのシャトーは、当時既にルイ宮廷内で有名であった。よってその屋敷は、革命の被害を逃れるためにも厳重に防御されている。一方、兄の子孫が経営するムートン・ロートシルトの方は、今でも三重の立体ダビデの星を付けた門を開き観光客に解放されている。

これらは「ロスチャイルド家の歴史」としては微々たる事実である。しかし、哲学思想の背景として捉えると俄然興味が湧く。例えば、ジェームスは一度もフランスへ帰化する事もなかった。本人は、この楽園を一度も尋ねる事はなかった。パリから遠く離れたメドックの美しい葡萄の園や西の大西洋へと開くその空間は、恐らく彼にとって何時か見た「定められた構図」であったのだろう。



参照:
高みからの眺望 [ 文学・思想 ] / 2005-03-09
行進しても喉が渇かない [ 生活・暦 ] / 2005-04-25
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