橋本屋吉次郎電子日誌

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清洲城

2009-10-25 | お城巡り(日本100名城)


清洲城は愛知県清須市(町村合併により清洲→清須となる)にあり、織田信長が桶狭間へ出陣した城です。

この城はとても不幸な歴史を背負っています。
第一は「清洲越し」です。
清洲は尾張一の繁栄した都市でしたが、江戸時代初期、徳川家康はこの都市機能のすべてを那古野(名古屋)に移転しました。
清洲越しは、家臣、町人のみならず、神社・仏閣も町のほとんどが移転するとともに、清須城小天守も名古屋城の櫓として移築されたとされています。
このため、城はおろか城下町も田畑になってしまいました。

時は流れて明治時代になりますがここで第二の悲劇に襲われます。
東海道本線の開通により城趾が南北に分断されてしまったのです。
さらに、東海道新幹線も平行して敷設されました。

現在は五条川の東側に天守閣がありますが、本来は西側の清洲公園が城趾だったのです。

当時をしのぶことができるものは、石碑と祠くらいしかありません。

平成元年(1989年)、旧清洲町の町制100周年を記念して再建することとなりましたが、
ここに、第三の悲劇が襲います。
第一・第二の悲劇により、史跡も資料も残っていませんので、安土城などを参考に有識者らでデザインしました。
費用の一部には、竹下内閣のふるさと創生基金も使われました。
ふるさと創生基金は、全国すべての市町村に一律1億円ずつ配られましたが、使用方法に悩んだあげく非常に趣味の悪い使い方をした例も少なくありませんでした。
清洲城も「史実に基づかない」とか「派手すぎて悪趣味」とさんざん非難されました。時はまさにバブルの真っ最中でした。
現在でも、農地が点在するこの地にこんな立派な城があったはずがないと思うのもいたしたかありませんが、かつては日本有数の都市だったはずです。
また、天守閣は安土城以降のものであり、清洲城は砦程度だったという方もみえますが、信長没後も織田信雄(信長の二男)、福島正則、松平忠吉(家康の四男)、徳川義直(家康の九男)と錚々たる面々が城主となっておりますので、充分ド派手な天守閣であった可能性はあるのです。
じじつ、この夏には金箔が残っている瓦が発見されています。

大手門から天守を望みます。

大手門の周りは、信長塀になっています。

ここでオヤっと思った方はかなりのツウです。信長塀とは熱田神宮に現存する土塀で、信長が桶狭間の戦いに勝利した礼に寄贈したと言われています(日本三大塀の一つだとか)。
天守閣の前には、なぜか石庭があります。

石垣は野面積みという原始的ですが強固なものです。

天守閣の中に展示してある甲冑は、よくある話ですが、

手作りとなると珍しいですね。

裏門にあたる、搦手門です。

天守閣横には、本丸御殿を模した芸能文化館があります。

ここは、講演や研修の施設としてつかわれるようです。
また、五条川西には清洲ふるさとのやかたがあり、休憩施設としても利用できます。

2年前まで、清洲城の近くで働いていましたが、その間にも少しずつこの近くは整備されるとともに市民の憩いの場所として利用されている様子がよくわかりました。
天守閣西にある五条川堤防には桜の木が並び、春になるととても美しくなります。

コメント (8)
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