一粒の種談話室

西洋社会の精神的基盤であるキリスト教と我々日本社会とのつながりや我々日本人が抱く疑問等を論じ合う場を提供

キエルケゴール「死に至る病」を読みかけて

2007-01-28 21:10:46 | 言葉
デンマークの哲学者キエルケゴールは、哲学書「死に至る病」の中で、全編にわたり「絶望」だけにテーマを絞って取り上げている。

キエルケゴールは、キリスト教徒にとっては、「自殺によって現存在から脱出しようとすることは罪の絶頂(神への反逆)」としているのに対して、「異教徒が自殺というものをきわめて気軽に考えていた」としている。

日本の先進国中自殺率トップということを考える時、このキエルケゴールの言葉は厳しい響きを私に与えた。キリスト教徒にとっては、どんなに苦しくとも自殺は神への反逆であるから赦されない。我々日本人は、自分の命は自分で決められると安易に考え過ぎてはいないか?

また、キエルケゴールは、人間がキリスト教を信じようとしない理由は、「キリスト教があまりにも高いからである」としている。「いまここに一人の貧しい日雇取りと史上に類のない程の強大な権力を持った帝王とがいるとする。帝王が彼(日雇取り)を養子に欲しいと考えているということを彼に知らせるとする。おそらくその場合彼はあからさまにまじめにこう告白するであろう。『そういうことは私にはあまり高すぎる。私はそれを理解することができない。それは馬鹿げたことのように思われる。』」だから、キエルケゴールは、人間がキリスト教を簡単に受け入れようとはしないのだとしている。

キエルケゴールと同じような質問を私の娘にもして見た。「もし、ある国の王様が、あなたを養女に欲しいと言ったら、どうする?」娘の答えは、日雇取りと全く同じであった。「知らない人だから、断る。」したがって、素晴らしいキリスト教があってもなかなか人間には受け入れられない訳である。

絶望に打ちひしがれる人を、キリストの愛により救いたいとしても、以上のような状況では容易ではない。
この状況を打開するのは、今は絶望には無縁の我々健常人こそ、キリストの愛に触れてこれを理解していくことしかないのではなかろうか?


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