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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (20)

2014年04月12日 | お日様とお月様の光と影
 中華大陸おいて歴代中華王朝による中華思想は(中華皇帝が大陸の中心だから皇帝に従属しなさい!という大陸の民族を服従させるかなり乱暴で傲慢な思想。要するに…『俺様思想と言えるwww』)長く東アジア地域の秩序を保っていました。
 18世紀後半イギリスは自由貿易を認めさせるため東アジアにも進出して来ました。そして19世紀1840年、イギリスと清との戦争「アヘン戦争」が勃発しました。結果は東アジアの強国と信じていた清がイギリスに大敗しました。これにより中華大陸における中華思想は瓦解したのです

 清はアヘン戦争後、西洋列強諸国に対してどの様に向き合ったのか?清はその後も中華思想にこだわり続け時代の激変に対応できないでいました。清において近代化思考が芽吹き始めたのがアヘン戦争後20年も経過した1860年代からでした。清の国内で頻発するテロや暴動を鎮圧するために清軍が西洋近代兵器を整えは始めてからでした。
 清の立場からすれば敵国である西洋列強諸国の近代学問を学び近代兵器を取り入れる事に抵抗を感じるのは理解できます。がしかし清の近代化スピードは遅いのではないのか?と思います。その原因として西洋列強諸国による沿岸部の植民地化が清の近代化の弊害となっていたようです。

 李氏朝鮮はアヘン戦争後、西洋列強諸国に対してどの様に向き合ったのか?中華思想に従属し清の付属国であった李氏朝鮮は独立国家ではありませんでした。朝鮮王は自ら自国の外交政策を決定できない立場にありました。また朝鮮王は西洋列強諸国に対して「中華思想に替わる新しい東アジアの外交政策」を表明していませんでした。ですから1850年代の李氏朝鮮では近代化思考の種が蒔かれてはいませんでした。
 そんな朝鮮半島をイギリスと帝政ロシアが自国の植民地として虎視眈々と狙っておりました。 


 そして日本はアヘン戦争後、西洋列強諸国に対してどの様に向き合ったのか?これまでこのコラムで語って来たように江戸幕府は清と国交は持っておらず清の中華思想に従いませんでした。日本にとってアヘン戦争は西洋列強諸国の圧倒的な国力と軍事力が脅威であることを江戸幕府に認識させました


 アへン戦争後、幕府閣僚安部正弘は『異国船打ち払い令』を遭難した船に限り薪や水また食糧などの補給を認める「薪水給与令(1842年)」に慌てて改めました。だがほとんどの大名が西洋列強諸国との主戦論を説きました。そして「尊王攘夷論」を主張する水戸徳川家水戸藩の徳川斉昭と藤田東湖をハト派の安部正弘は上手く宥めて幕政改革に取り込みました。また安部正弘は西洋列強諸国との開国論を主張する外様大名の薩摩藩主の島津斉彬を上手く幕政改革に取り込みました。

 そして江戸幕府は1854年から55年にかけてアメリカ合衆国、イギリス、帝政ロシアに対して和親条約を締結し西洋列強諸国に対して外交譲歩を示しました。 19世紀半ば、清皇帝や朝鮮王が西洋列強諸国に対して「新しい東アジアの外交政策」を表明することは有りませんでした。『もしかすると徳川将軍が西洋列強諸国に対して「新しい東アジアの外交政策」を表明し将軍の国際的地位を築くチャンスと安部正弘は考えていたのかもしれません。』①
 もし安部正弘がそう考えていたなら「甘い!」
 西洋列強諸国が日本、清、李氏朝鮮の東アジア三国をどの様に見ていたのか?また西洋列強諸国が東アジア三国に何を要求するのか?そして西洋列強諸国が東アジア三か国をどの様に支配しょうとしているのか? 19世紀半ばどの国も理解していませんでした。


 
 1855年7月、江戸幕府は鎖国政策から開国し「西洋学を学び国家の近代化を推進しょう!」という近代化思考が日本で芽吹き始めていました。幕府の近代化三点セットの一つ「長崎海軍伝習所」はオランダ王国の協力を得て年末開所に向けて建設が始まっていました。責任者に永井尚志が着任していました。

 その頃江戸では、長崎海軍伝習所の一期生の幕臣勝海舟と中島三郎助は江戸の各藩邸を周り「伝習生募集!」広報を地道に行っていました。けれどとなかなか伝習生が集まりませんでした。 勝と中島は各藩の重役に長崎海軍伝習所をこう説明していました。

 「“日本国の海防強化”のために海軍教育と西洋科学を体系的に教え海防人材を育成する教育機関です!」

 しかしそう言うとどこの藩の重役もドン引きしました。

 そうなんです!江戸時代ほとんどの人は“日本国”という意識は無く“日本人”と言う意識もありませんでした。江戸時代の人は(それより以前の時代も)藩が独立国家であり“藩がくに”でした(薩摩人、長州人という“くに”“郷土意識”)。これが幕藩体制「連合国家」の弊害でした。日本国の海防は幕府が行う任務で藩の任務では無いとほとんど藩は思っていたようです。つまり幕府の海防任務に藩の人材を奪われると恐れたのです。
 
 
 「ナア中島!どうすれば解かってもらえるだろうねェ」
 「はァ…」
 
 幕臣 勝海舟(別名麟太郎 りんたろう)は西洋学を学びオランダ語会話のできる幕府の逸材でした。幕府が「アメリカとの国交問題」に行き詰まり幕閣安部正弘がアメリカ合衆国大統領の国書を日本語に翻訳させてアメリカとの国交問題の意見を幕臣や各藩それに一般市民から問うことしたのです。勝はこの時、海防強化の必要性を説いた意見書を幕府に提出しその意見書が安部正弘の目に止まり外交専門の海防掛に採用されました。

 また1853年7月8日、ペリー提督が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船四隻が浦賀沖に来航した時、中島はペリー艦隊に対してファーストコンタクトを行った浦賀奉行所の役人でした。中島は「英語会話の必要性」「海防強化の必要性」を体験として痛感していました。勝と中島は国難である海防強化の必要性を危機感として持っていた数少ない幕臣でした

 1855年7月初旬のある日、勝と中島は薩摩藩の紹介で江戸佐賀藩邸(現東京都港区虎ノ門)の外様大名 藩主 鍋島直正を訪ねました。

  「ここのお殿様はタヌキらしぃから気を付けなっ!!」
  と勝が中島に言いました。
  「え~!勝殿やめましょう!」
「タヌキの殿様に俺たちの誠心誠意を見せようぜ!だめならタヌキに江戸っ子の心意気を見せてやるぜ!」 
  「そんな~」

 勝のアイデンティティはこの時は未だ「江戸っ子」だったようです。江戸っ子の勝は中島の手を引っ張り強引に江戸佐賀藩邸に入っていきました。
 


 『』① 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より要約


  つづく
 

 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(20)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
      
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