17世紀、明朝は朝貢貿易政策を保護するため海禁政策(かいきん 鎖国政策と同じ統制管理貿易のこと)を実施していました。『1644年、明朝の政権交代のち清朝は海禁政策を引き継ぎさらに輸出入産品の統制を行い管理貿易を実施し海商人の海外渡航禁止を実施しました。そして清朝は大陸沿岸部の上海、広州、寧波、厦門に海関を設置して海商人と外国商船に対して税金を徴収しました。』①
清朝の海禁政策と統制管理貿易は清国内の人、物、金が停留し国家としての発展の妨げとなりました。
18世紀、産業革命を成し遂げたイギリス、フランス、ドイツ、アメリカ合衆国の西洋列強諸国は次々と
「自由貿易」を求めインド、インドシナ半島そして清に進出して来ました。18世紀末期、イギリスが植民地支配するインドと清との貿易が増大していました。1793年、イギリス政府は単なる清との交易ではなくイギリスと清とが国交樹立させ国どうしが通商を行う外交交渉を行いました。しかし清皇帝は朝貢貿易しかイギリスに認めませんせんでした。清とイギリスとの
自由貿易交渉は決裂しこれがアヘン戦争の原因のひとつとなりました。
アヘン戦争後、清とイギリスとが締結した南京条約(1842年)によって清の沿岸部の5港が開港しました。イギリスにとって香港・広東・厦門・福州・寧波・上海は植民地であり領土なのです。開港地といっても清と西洋諸国との貿易は全くの未経験だったので五港は未開拓の土地でした。
しかも西洋人に対して「攘夷」中華思想に基ずく排外主義が清国内で吹き荒れていました。西洋列強にとって清はフロンティアでは無く身の危険を感じる異国でした。
1844年、元外科医の経歴を持つラザフォード・オルコックは福州領事に任命され中華大陸に赴任して来ました。清の沿岸部の5港での租界地の開発と税関を造りあげることがオルコックの使命でした。『清沿岸部五港での租界地の開発や貿易港の建設それに貿易実務などなどオルコックは基礎から開発していかなければならなったのです。』②
オルコックが福州領事に赴任した時、厦門領事館に領事館通訳ハリー・スミス・パークスも赴任して来ました。イギリス福州領事館と厦門領事館は同じ福建省にありオルコックとパークスは度々仕事で顔合わせていた様です。
オルコックとパークスの二人は清と日本に駐在した外交官でイギリスの東アジアに対する外交政策に多大な影響を与えたのです。
『厦門領事館勤務を2年務めたオルコックとパークスは1846年上海に転勤となりました。その頃の上海は前任者の努力により領事館が完成しまた既にイギリスの租界地の開発が始まっていました。上海は他の港とは違い清国人のイギリスに対する排外運動や反発はほとんどありませんでした。しかしそんな上海でオルコックとパークスは大きな事件に遭遇することになります。』②
1855年7月上旬、長崎海軍伝習所の一期生の幕臣勝海舟と中島三郎助が「伝習生募集!」広報のために江戸佐賀藩邸 外様大名 藩主 鍋島直正を訪ねました。直正は長崎海軍伝習所の構想を幕府より直接話を聞いていました。がしかし幕臣がしかも海防掛の勝が訪ねて来たと直正は近臣から聞かされ興味を持ち面会することにしたのです。
藩邸の控えの間に控える勝と中島。少し緊張する二人そこへ鍋島直正が入って来ました。平伏す二人もちろん初対面だが直正は容赦はしなかった。直正は勝と中島に対して単刀直入に質問しました。直正が入手した情報によるとオランダ軍艦が一隻オランダ領 東インド パタブィアタから長崎に向けて出港した。幕府がオランダ王国に発注した蒸気軍艦は二隻だったはずなのに…
「オランダ軍艦は本国からの命令を受け決意を持って長崎に向け出港したと思わんか!?」
幕府はオランダ王国に対して蒸気軍艦を二隻発注していました。その上にオランダ商館長ドンケル・クルティウスは「長崎海軍伝習所」の教官にオランダ海軍士官の派遣を幕府に約束していました。
直正の鋭い問に二人は絶句しました。中島は小声で「砲艦外交…」とつぶやく…「それは無い!」と直正は強く否定しました。
オランダ王国は他の列強諸国とは違い幕府に対して
「砲艦外交」武力威嚇などしませんでした。むしろオランダ王国は200年以上も幕府の統制管理貿易に対して忠実に従って来たのです。
しかもオランダ王国は何度もアメリカ合衆国海軍の艦隊が日本に来航すると幕府と長崎奉行に対して警告を続けました。しかし幕府はオランダ王国の警告に対して何の海防対策をも取りませんでした。
そんなオランダ王国より先に幕府はアメリカ合衆国、イギリスそして帝政ロシアと和親条約を締結したのです。
おそらくオランダ王国は他の列強諸国より先に日本と「通商条約」を締結するため軍艦を派遣したのではないのか?と直正は二人に説いたのです。
しかし鍋島直正は幕府がようやく西洋式の軍制改革を実施することを評価していました。直正は藩士に対する教育を熱心に行い藩校弘道館(水戸藩の藩校と同名ですが交流は全くなかったようです)で藩士教育を義務化しました。『直正の藩士に対する教育改革は試験制度でその試験に合格しなければ藩士の給与を容赦無く大幅に削減する評価主義を取り入れました。さらに直正は役職の世襲制を廃止し西洋学を学んだ有能な藩士を藩政に参画する実績主義の人材登用を行ったのです。』③
直正は長崎海軍伝習所で西洋学を体系的に学ぶ教育方針を評価しました。直正は二人に長崎海軍伝習所ではどんな西洋学を学習するのか?と問いました。勝と中島は主に航海術や造船業などを学習すると答えました。
直正は二人に西洋医学を学ぶ必要性を熱心に説きました。
直正は藩に医学校を設立し西洋医学を藩士に学ばせ西洋医学教育を熱心に行っていたのです。幕末日本において天然痘、麻疹、結核、マラリアなどの伝染病が漫延し庶民は苦しんでいました。佐賀藩でも繰り返して起きる伝染病に対して衛生対策と医療対策が求められていました。
『1846年、佐賀藩領内で天然痘のパンデミックが起きました。直正は種痘を実施することを決断したのです。1849年、直正は藩医に痘苗を輸入させ実子に接種したところ「成牛痘種痘法」が成功したのです。』④
その後大坂適塾の緒方洪庵は佐賀藩の種痘を受け取り「成牛痘種痘法」の普及に尽力しました。
これが日本において東洋医学から西洋医学に転換していく事例でした。
アヘン戦争後、鍋島直正は西洋列強諸国との対外戦争危機を抱いていました。直正は幕府に対して長崎港警備強化を提案しました。がしかし幕府は財政難を理由に何の対策も取りませんでした。そこで直正は長崎港の海防強化を佐賀藩の資金で行う事を幕府に提案し幕府はそれを了承しました。『1850年、直正はオランダの技術書を翻訳させ西洋式大砲の製造のために反射炉の(はんしゃろ 鉄の精錬に使用される融解炉)製造に着手しました。』④
直正は教育改革で西洋学を学んだ藩士を総動員させ
佐賀藩“西洋式武装化”を開始したのです。直正はこの武装化計画に密貿易で得た潤沢な資金を惜しむことなく注ぎ込んだのです。佐賀藩の反射炉は失敗を繰り返しましたが佐賀城下築地(現 佐賀市長瀬町)に反射炉(4炉2基)を完成させたのです。
『こうして佐賀藩は長崎港神ノ島(現 長崎市神ノ島)を埋め立て砲台建設に着手しました。1853年佐賀藩はペリー来航後、西洋式大砲鋳造工場を建設し幕府より洋式大砲の注文を受け長崎港神ノ島に洋式大砲を据え付け砲台の武装化を完成させたのでした。しかし佐賀藩は反射炉と大砲鋳造工場、火薬製造工場、弾薬庫、機械庫などを整備した“西洋式武装化”を行っていたのです。その事は佐賀藩の秘密主義政策によって
幕府も他藩も知りませんでした。』④
佐賀藩の役目である長崎港の警備強化するため長崎海軍伝習所に佐賀藩士を入所させる。これは
鍋島直正にとって表向きのことでした。
直正の本音は佐賀藩独自の洋式海軍創設構想を描いていたのです。直正は日本の海防強化のために藩士を長崎海軍伝習所に入所させるのでは無かったのです。直正は勝と中島にこう言い放った。
「佐賀藩のお役目である長崎警備強化のためである!それは幕府のためではでないのか?」
やがて勝と中島は佐賀藩邸から出て来てました。少しの時間だったが鍋島直正に対面した二人は気疲れしていました。長崎港を洋式大砲で要塞化した佐賀藩。その大砲をどこから手に入れたのか?謎のタヌキのお殿様とウワサされていた直正。勝と中島は対面した鍋島直正の目の奥に潜む底知れない野心を見たのでした。
1855年7月中旬、薩摩藩の桜島瀬戸村造船所より洋式帆船 軍艦 昇平丸が江戸湾に向け出港しました。昇平丸には藩主島津斉彬と西郷吉之助も乗船していました。斉彬は出港前に近臣より「オランダ軍艦が一隻オランダ領 東インド パタブィアタから長崎に向けて出港した。」と報告を受けていました。島津斉彬も鍋島直正と同様に
オランダ王国は日本と「通商条約」を締結するため軍艦を派遣しのだと思うのでした。幕閣安部正弘と徳川斉昭そして海防掛がオランダ王国に対して政治的決断を下すかを斉彬は見極めようと江戸に向かうのだった。
つづく
『』① Wikipedia
海禁 より要約
『』② ラザフォード・オールコック~東アジアと大英帝国~ ウェッジ選書 より要約
『』③ 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 ~肥前の妖怪~ より要約
『』④
佐賀市公式web 佐賀藩の取り組み より要約
お日様とお月様の光と影
~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(23)
≪参考文献≫
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より
ラザフォード・オールコック~東アジアと大英帝国 ウェッジ選書 より
幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録 より
日本開国史 石井 孝 吉川弘文館 より
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。