1854年11月末、 帝政ロシアのプチャーチンは函館で交渉を拒否され大坂(現在の大阪府)に到着しました。がしかし幕府より下田に向かう様に命じられました。その頃、江戸城本丸御殿の御用部屋では安部正弘、徳川斉昭、藤田東湖らがプチャーチンと長崎で何度も交渉した川路 聖謨(かわじ としあきら)と筒井 政憲(つつい まさのり)を呼び出し帝政ロシアとの交渉を協議しました。
19世紀初頭より帝政ロシアの極東支配に伴って蝦夷地(現北海道)や樺太(サハリン)千島列島などの
国境策定の北方領土問題が有り幕府と帝政ロシアは緊張関係に有りました。そこで幕府は1808年、幕府役人の間宮 林蔵に対して蝦夷地の北西部や樺太の探検を命じました。間宮の約20年間に渡る探検は千島列島から樺太そして大陸に渡りウラジオストク地域を探検しました。そして極東地域に於いては多様な民族が居住しており帝政ロシアの支配は十分ではないことを確認したのです。この様に幕府と帝政ロシアは
国境策定の北方領土問題を解決しなければならない外交問題だったのです。
安部正弘と徳川斉昭は川路 聖謨と筒井 政憲に対して「
帝政ロシアとの通商は断固拒否し!国境策定の北方領土問題について交渉せよ!」と命じました。
『12月13日、プチャーチンはディアナ号で下田に入港しました。エフィミー・プチャーチンという帝政ロシアの軍人は
条約交渉のため来日した屈強な軍人です。クリミヤ戦争勃発によってイギリス・フランス連合海軍を避けプチャーチンは一年以上も日本と極東そして東南アジアを往復していました。12月20日、下田に到着した川路 聖謨と筒井 政憲はプチャーチンに対して22日より稲田寺(とうでんじ 現下田市一丁目)で条約交渉を開始すると伝えました。』①
『次の日、日露条約交渉が始まりました。
プチャーチンは日米和親条約の内容を知っていたのです。かつ前回の1月の長崎での交渉では川路 聖謨が「
もし日本が通商を始めるとしたら帝政ロシアから」と妥協していました。ですからプチャーチンは通商条約交渉を主張しました。川路は国境策定の北方領土問題の交渉を主張しました。初日の日露交渉は双方の主張が並行して終わりました。』①
『
そして1854年12月23日午前8時頃、駿河湾から遠州灘沖を震源とする巨大地震が起きました。この「
安政東海地震」は海溝型地震と思われ
地震の規模はマグニチュード8.4、震度は4から7と推測されています 。被害は関東地方から近畿地方に及び江戸時代の主要街道だった東海道(とうかいどう 本州太平洋側より京から江戸に向かう街道)や中山道(なかせんどう 本州中部の内陸側より京から江戸に向かう街道)の宿場町も被災に遇いました。特に直後に起きた津波によって静岡県の沼津や伊勢湾の伊勢志摩などの沿岸部が壊滅的被害に遇いました。』①
『日露条約交渉が行われている下田の町も地震被害に遭いまいた。そして直後に津波が下田の町を襲い推定6~7mの津波が押し寄せ全家屋のほとんどが流され下田の町は壊滅しました。』『下田沖に停泊していたディアナ号は津波によって大破してしまいました。しかしプチャーチンと水兵は全員無事でした。プチャーチンは津波によって溺れた住人を救助し艦医を上陸させ震災によってけがを負った人々を治療にあたらせました。
プチャーチンは被災した下田の人々を救済し友好を示しました。』①
『川路 聖謨と筒井 政憲は下田の宿場で被災をしましたが無事でした。また条約交渉が行われている稲田寺は被災しませんせんでしたので日露交渉は途切れることなく続行されました。ディアナ号は津波によって大破したのでプチャーチンは川路 聖謨と筒井 政憲に対して船の修理を依頼し許可を取り付けました。』①
『
さらに1854年12月24日午後16時頃、紀伊半島から四国沖を震源とする巨大地震が起きました。この『
安政南海地震』は前日に起きた駿河湾から遠州灘沖を震源とする安政東海地震と連動型だったとされています。
地震の規模はマグニチュード8.4、震度は4から7と推測されています。被害は四国地方の太平洋沿岸部さらに近畿地方の大阪平野・播州平野・淡路島・紀伊半島沿岸部が被災に遇いました。そして直後に起きた津波によって紀伊半島沿岸部の
紀州藩や四国太平洋側の
土佐藩が甚大津な津波被害に遇いました。』②
1854年の年末、江戸城本丸御殿の御用部屋では各藩より次々と震災と津波被害が報告され安部正弘、徳川斉昭、藤田東湖は蒼白になっていました。安部正弘政権は日露条約交渉どころでなくなり震災と津波被害の対応に追われる様になりました。二日連続で発災した未曾有の安政の大地震。この震災で被災した藩に対して幕府は適切な復興救済対策ができなでいました。この頃の幕府財政は危機的状況にあったのです。
同じ頃、江戸より遠く離れた薩摩藩の桜島瀬戸村造船所(現鹿児島市黒神町)では「洋式帆船 軍艦 昇平丸」が12月に竣工し藩主島津斉彬の江戸に向けて試運転の命令を待っていました。
薩摩藩には安政の大地震の被害が全く有りませんでした。
この安政の大地震は政治的、財政的そして軍事的にも幕府と薩摩藩の明暗を別けたのです。
こうしてペリー再来航で明け安政の大地震が発災した激動の1854年が暮れました。
『』①は幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より要約
『』②
ウィキペディア 「安政の大地震」より要約
(注意)このコラムは西暦で統一しています。「安政」とは当時の日本固有の年号です。
つづく
お日様とお月様の光と影
~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(8)
≪参考文献≫
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書
幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
歴史読本 徳川慶喜をめぐる女たち 1998年10号 新人物往来社
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。