ぺるりの今日

観たもの、読んだもの、主観をたっぷり交えて感想書いてます。
藤原竜也さん、superflyにどっぷりはまり中。

再び「遺恨あり」を見る

2011-05-03 | 藤原くん関連
何度みてもいいドラマです。
今日は気がついた細かいこだわりを書こうかと。

音楽と、メイクと、衣装
なんですけど。

まずは音楽(BGM)ですね。
六郎が出てくるシーン
仇の一瀬が出てくるシーン
中江が参考人のところを訪ねていくシーン

という具合に、シーンごとというか登場人物ごとに音楽が統一されているんですね。
六郎のBGMがエンディング曲にもなっているわけですが
旋律は同じでも色々パターンがあって、役の心情とリンクしてます。
音による統一感によって、作品がすっきりしますよね。
バックにかかる音楽にまで、注目したのは今回が初めてです。


次にメイク。
すごいと思ったのは、山岡鉄舟との稽古中と稽古後のシーン。
目とか、本当に腫れているように見えました。

ここで感じた作品へのこだわりですが、
六郎はドラマの中で「年をとらない」というところ。
最後、六郎が生家に帰るときには30代半ばのはずなんですね。
メイク云々の前に、藤原竜也の演技力なら、実年齢に感じさせることは
充分に可能なのですが、
そこにこのメイクの技まで加われば、言わずもがなですよ。

それを、あえて若い姿のままでいったということは何を表しているのかを
考えてみました。

一つには「悲劇の子」だからというのがあると思います。
「私の心は、すでに死んでおります」という六郎の言葉を聞く、
鉄舟の表情は、まるで我が子を見つめるようで、
しかも、この悲しみの子供を生み出したのが、
自分たち大人であるという複雑な思いも感じるんですね。
六郎となかが「子」、鉄舟、一瀬、中江が「親」というように
世代の対比も出ていたと思うのです。
なので「子」として貫くには、若い姿のままの方がいい
というのが一点。

そして、もう一つは、六郎の仇討ちの人生は
「涙」に始まり「涙」に終わるということ。
父の首を抱えて泣いたときから、河原で自身の仇討ちの人生を振り返り泣くまで
この期間が、仇討ちにかけた人生であり、
この間、六郎の「とき」は止まっているのでしょう。
そして、ラストの笑顔から、また六郎の「とき」が動き出すということを
表しているんだろうなと思います。


そして、最後に衣装。
ドラマの中には、洋装と和装が出てきます。
そして、六郎、鉄舟など武士の側は和装、
中江や一瀬など、新政府側は洋装なんですね。
注目すべきは、新しい時代を受け入れた人から順に洋装になっていくことです。
鉄舟も、六郎の伯父も途中で洋装に変わっているんですね。
その中で六郎だけは、ずっと和装のままなのです。

和装と洋装では、印象がまったく変わるので、見ていて「あっ」って
思うんですね。
その度に、「ああ、この人も新しい時代にいってしまったのか」
という思いにかられます。
特に鉄舟の洋装をみたときは、その思いが強かったです。
その中で、六郎一人が、置いてきぼりになっていくんです。

メイクともリンクしますけど、六郎だけ「とき」が止まっているように
見る側は感じます。


こんな細部に至るまでのこだわりが、作品の質のよさに繋がっているように思います。
監督、キャスト、スタッフ全てがプロフェッショナルと感じる作品ですね。


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