JW文書を読んでいて「異議有り!」と思ったこと、どれくらいありますか。
その時、疑問や異議をみんなの前で言えましたか?
私はマイコンがかかっていた現役時代にも疑問を感じたことや確信をもてなかった教えが結構ありました。でも疑問を口にしたことはありませんでした。
なぜかっていうと、その時は口に出すほどそれが間違っているという確信がなかったからです。 なぜ確信がなかったかというと、JWについて調べることが禁止されていたというのもありましたが、みんながこんなに信じているのだから正しいのでは、という考えも正直いうとありました。
特に外国にでてべテル派遣講演だのでお話が上手な兄弟なんかを見たり、反対にJW肩書きがなくても世で立派に成功している人たちが会衆にしっかり交わっていたりするのをみて、「こんな立派な人たちが信じているのだから確かだろう」
と思っていたんです。
エホバの証人が研究生を早いうちから集会につれてゆくように言われている理由は日本ではいわゆる「ラブシャワー」と言われる愛の大歓迎を受けさせ、気持ちよくさせるため、と思われています。
が、外国では研究生に対するラブシャワーというのはほとんどありません。数人が声をかけてくればいいほう。
なので私は、協会は研究生に「普通の、まともな、うまく行けば立派な人々がちゃんと信じている教理」=真実だと確信させるためではないかと思います。
みんながやっていることは正しい。
いわゆる一種の集団圧力にかけようというのでは。と思うんです。
その証拠に雑誌でどの宗教が本当の宗教か、なんていうトピックがでると、もちろんそれはJWだ、と書きたいのだろうけど、「証拠」がない。なので、遠まわしに「みんなが真実だと言っている」みたいなあいまい~な書き方をしますよね。
たとえば「アグネスはエホバの証人のクリスチャンの集まりに出たとき、あふれる愛を感じました。そこにはきちんとした身なりの礼儀正しい人たちがにこやかに、平和に会話を楽しんでいて~中略~ 私は人々の間に愛があふれているのをみてエホバの証人が正しい宗教だと確信しました、と興奮して語りました。」
な~~~んていうのが載ってますよね。
アメリカの心理学者・ソロモンEアッシュという人が集団の圧力についてこんな実験をおこなっているそうです。
6人にまず、長さ10センチの線を見せ、「次に表示するボードの書かれた3つの線の中から同じ長さの線を探してください。」といいます。
ボードには
A 5センチ
B 10センチ
C 15センチ
の線が書いてあって、答えはBだと誰が見ても簡単に分かるようになっています。でもこの被実験者6人のうち5人は「さくら」で、わざと違った答え(A)を選択するよう前もって決められています。
何もしらない6人目の被実験者はテーブルの最後につかされて、最後に発言をするようにセッティングされてます。
なんかもう分かってきたと思いますが(笑)、そうなんです。5人がわざと間違った答えをすると、それが明らかに間違っていても約3分の1の人がその意見に従って間違った線を選択するようになるそうです。
これが「絶対正しい答えが明らかな」知覚問題ではなく、白黒がつきにくい社会的テーマになると約70パーセントの人が意見を変えるそうです。
エホバの証人の集会に行くとき、「世間」の人数からいくとほんと少数ですが、大勢→みんなと認知されるだけの数は集まっていますよね。その人たちが一致団結して同じことを唱え信じている。
ものみの塔研究の朗読は無駄だとか、注解は自己マインドコントロールに一役かっているのではとも言われますが、そのほかに集団で同じことを唱える→みんながきちんとこれを信じているという安心感を得させるための役割があるのかもしれません。
これはJWを好意的に思っている研究生とか、確信を得ようにも経験なさから確信が得られない2世を熱心なJWにする後押しには、、、十分である時もある、
と自分の経験から思います。
その時、疑問や異議をみんなの前で言えましたか?
私はマイコンがかかっていた現役時代にも疑問を感じたことや確信をもてなかった教えが結構ありました。でも疑問を口にしたことはありませんでした。
なぜかっていうと、その時は口に出すほどそれが間違っているという確信がなかったからです。 なぜ確信がなかったかというと、JWについて調べることが禁止されていたというのもありましたが、みんながこんなに信じているのだから正しいのでは、という考えも正直いうとありました。
特に外国にでてべテル派遣講演だのでお話が上手な兄弟なんかを見たり、反対にJW肩書きがなくても世で立派に成功している人たちが会衆にしっかり交わっていたりするのをみて、「こんな立派な人たちが信じているのだから確かだろう」
と思っていたんです。
エホバの証人が研究生を早いうちから集会につれてゆくように言われている理由は日本ではいわゆる「ラブシャワー」と言われる愛の大歓迎を受けさせ、気持ちよくさせるため、と思われています。
が、外国では研究生に対するラブシャワーというのはほとんどありません。数人が声をかけてくればいいほう。
なので私は、協会は研究生に「普通の、まともな、うまく行けば立派な人々がちゃんと信じている教理」=真実だと確信させるためではないかと思います。
みんながやっていることは正しい。
いわゆる一種の集団圧力にかけようというのでは。と思うんです。
その証拠に雑誌でどの宗教が本当の宗教か、なんていうトピックがでると、もちろんそれはJWだ、と書きたいのだろうけど、「証拠」がない。なので、遠まわしに「みんなが真実だと言っている」みたいなあいまい~な書き方をしますよね。
たとえば「アグネスはエホバの証人のクリスチャンの集まりに出たとき、あふれる愛を感じました。そこにはきちんとした身なりの礼儀正しい人たちがにこやかに、平和に会話を楽しんでいて~中略~ 私は人々の間に愛があふれているのをみてエホバの証人が正しい宗教だと確信しました、と興奮して語りました。」
な~~~んていうのが載ってますよね。
アメリカの心理学者・ソロモンEアッシュという人が集団の圧力についてこんな実験をおこなっているそうです。
6人にまず、長さ10センチの線を見せ、「次に表示するボードの書かれた3つの線の中から同じ長さの線を探してください。」といいます。
ボードには
A 5センチ
B 10センチ
C 15センチ
の線が書いてあって、答えはBだと誰が見ても簡単に分かるようになっています。でもこの被実験者6人のうち5人は「さくら」で、わざと違った答え(A)を選択するよう前もって決められています。
何もしらない6人目の被実験者はテーブルの最後につかされて、最後に発言をするようにセッティングされてます。
なんかもう分かってきたと思いますが(笑)、そうなんです。5人がわざと間違った答えをすると、それが明らかに間違っていても約3分の1の人がその意見に従って間違った線を選択するようになるそうです。
これが「絶対正しい答えが明らかな」知覚問題ではなく、白黒がつきにくい社会的テーマになると約70パーセントの人が意見を変えるそうです。
エホバの証人の集会に行くとき、「世間」の人数からいくとほんと少数ですが、大勢→みんなと認知されるだけの数は集まっていますよね。その人たちが一致団結して同じことを唱え信じている。
ものみの塔研究の朗読は無駄だとか、注解は自己マインドコントロールに一役かっているのではとも言われますが、そのほかに集団で同じことを唱える→みんながきちんとこれを信じているという安心感を得させるための役割があるのかもしれません。
これはJWを好意的に思っている研究生とか、確信を得ようにも経験なさから確信が得られない2世を熱心なJWにする後押しには、、、十分である時もある、
と自分の経験から思います。
私のようにナセナゼおばさん研究生は いづらいですよ~。長老さんも逃げ腰。あんまり聞くと、裁かれそうな雰囲気、しんどいです。だからネットで ナセナゼおばさんやらざるを得ない。
元々集団圧力、村八分土壌の日本のJWでは、当然集団圧力もありつつ、ラブシャワーで、何も知らなくても歓迎されてる・・もっともっと頑張らなくちゃ!と日本JWのアメリカ化、やっぱり愛の宗教は本物ねと信じちゃう。
日本で、世間知らずの1980年代専業主婦は、いいカモでした。
やっぱりそう感じられますか。2世の場合、元からエホバの証人と見られているので、バプテスマ前でも教理面で突っ込んだ疑問を投げかけると、背教と騒がれます。これは数あるJWの欠点の中で非常にネガティブな部類に入る事だと思います。
●あんまり聞くと、裁かれそうな雰囲気
これ、これですよね。疑問を持つことに対して罪悪感を無言で感じさせるような雰囲気。これに関してはカルトといわれてもしょうがないような気がするのです。
> が、外国では研究生に対するラブシャワーというの
> はほとんどありません。
この点は,「意外」でした。
もちろん,「外国では」というひとくくりで,「何万とある会衆」のすべてを,同じように判断はできないでしょうけども。
私が現役の頃,ずうっと何年も疑問に思ってたのは(この疑問は,「集会に行くたんびに」感じた),イエスは,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は・・・云々」という,あの有名は聖句は,本当なのか,という点でした。というのは,私は,「愛を感じなかった」からです。
もちろん,親切にしてくれた仲間もいた。見ず知らずの者に対する歓迎もあることを知っている。
しかし,私が言ってるのは,そういうことじゃないんですよ。なんていうんでしょうね,「愛」と言っても,表面的,薄っぺらい愛じゃなくて,私が言ってるのは,「本当の愛」なんですよ。それを感じなかったわけです。
よく,自分を犠牲にするほどの愛,アガペー愛と言います。しかし,はっきり言っておきますけども,私のために命を犠牲にするほどの愛を示してくれた人はいないです。
よく私は,泣いていましたね。王国会館で。寂しかったからです。ある時は,賛美の歌を歌ってる時に涙が出てきて,よく「ものみの塔」誌には,泣いてる時に,そばに来てくれて,腰に手を回してくれて,姉妹が一緒に賛美の歌を歌ってくれたとかっていう美談が紹介されてますが,あれは「ウソ」だと私は思ってます。
だから,思ったんでしょうね。キリスト教世界で,周りがキリスト教を信じるという人たちの中で,「自分たちこそ,真のキリスト教」と豪語する人の愛は,どれほど深いのかと。自分の目で確かめてみたいと思ってました。
まあ,その前に,この組織に「愛はない」と,「見切り」をつけて,やめちゃいましたけども。
なにか協会の思うところがあるんじゃないかと思うんです。集団暗示みたいな。外国語も自分で読んでるときってあんまりインパクトがないけど、同じものを他の人が読んでるのを聞くと、とたん頭が受け入れてくれる、っていうのがありますよね。ものみの塔もそんな感じかな。と。
●司会者の兄弟が「どうして若者はオーラルセックスが淫行だと考えにくいのでしょうか」
いや~~本当ですか~~日曜の朝から恥ずかしいですよね~~~。こういうの、未信者のお父さんとか研究生とか来てたらどう思うのかなあ、、。
●ものみで扱うて事は、世界的にJWの若者の間ではオーラルセックスやりまくってるって事でしょうか?
最近の組織のオーラルセックスこだわりようを見ると、組織はそれを懸念してるようですね。(笑)
夫婦間でも禁止の方向になってきてるし。なさけない話です。
そうなんですよね。日本人とJWというのは最強(最悪?)な組み合わせで、よって心の被害や家族の被害なんかは比較的他の国より大きいんじゃないかと思います。韓国のJWが儒教の影響もあり、日本のJWと似た感じがしました。
ところで、日本は集団圧力が他より強いと私は思っていたのですが、同じ実験を日本でした結果、なんとアメリカと同じ結果になったそうなんです。
みんながやっているから、という人間心理は同じように働くんですね、、興味深いです、
↑私も薄々そんな風に思ってました!!!広い範囲にわたった記事とか、時代や聖句があちこち飛び飛びとか、やけに専門的で調べようと思うとものすごく時間がかかってしまう→次の集会の準備が来てしまうので、後ろ髪ひかれつつも書いてあることを鵜呑みにしてやり過ごしてしまう、、とか。
私は北アメリカ以外の国の会衆もいろいろ回りました。が、どこもみんな同じでした。数人挨拶してくればいいほうです。
それから外国で出会う日本人JWも自分が会った中では100%同じ感想を持ってます。立派な現役さんでも、悲しく感じているようです。
そして現地の人たちもいったん心を開くと同じように悲しく思っていることが分かってきます。
日本にはおせっかいな姉妹、というのがいますが、あれも日本ならですよね。引越しには誰も来ないし、困った時の食事援助なんてもってのほか。アジア系(韓国人、フィリピン人)の人は近くにいればすこしそういう日本的な親切を示してくれます。
多分海外に出たJWはほとんど同じ意見を持っていると思います。残念ながら。。。。
●私は,「愛を感じなかった」からです。
私もそう思います。エホバの証人は概して冷たいです。そもそも殺人的なスケジュールで生活している人が多いし、罪でも犯せばその日限りの付き合いになるのが前提の関係ですし、生活も苦しいので心の余裕もない。。。。そして何よりも「霊性の低い人はJW内であっても避けるように」「良い友を選びなさい」などという非人間的な指示がされる組織で暖かい愛をはぐくむのが難しい、懐疑的にならないほうが難しいと思うんです。
●よく,自分を犠牲にするほどの愛,アガペー愛と言います。
集会にいくのに車のない人をピックアップするのにガソリン代がかかる、車が汚れるといって嫌がるようなエホバの証人たちがいわゆる「大艱難」で自分の命が危険なとき、仲間を顧みることが期待できない、、と言っていたイギリスの姉妹がいました。私も同じ意見です。
●よく私は,泣いていましたね
私も泣いたことありますよ。。また泣いている人を日本でも海外でも何度も見ました。みんな見て見ぬふりです。触らぬ神にたたりなし、というでしょうか。
確かにそっとしておいて欲しい人もいるかもしれないけど、、集会が終わってからそっと声をかけるとか、色々気遣う方法はありますよね。
やはり私も見切りをつけたほうです。