日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(20) 二通のはがき

2007-01-05 11:13:35 | 生きること

この「生きること」を一旦閉じようと思って仏壇の引き出しを改めてみたら、二通のはがきが出てきた。一通は母が書いた宛先のない出さなかったはがきで、もう一通は真ん中から半分にちぎれてぼろぼろになっているはがき。このはがきにも宛先が書かれていないが、馬橋の住所と父の名がブルーのスタンプによるゴム印で押してある。
文字はたった三行の黒インクによる万年筆の走り書きである。

『南方派遣軍□□で○月○日
 ○○港出発予定
 元気で暮せ 子供頼む』

□はちぎれたところで読み取りにくいが「所属」と書かれているようだ。○○は書けなかったのだと思うが、知らされていなかったのかもしれない。父は一言でも気持ちを伝えたかったのだ。
投函していないのに此処にあるのは、誰かに託したのだろう。ということは母の手に渡してくださった方がどこかにいるのだ。でも何故自宅の住所と父の名のスタンプが押してあるのだろう。
この後戦地からのはがきも届いたが、何故このはがきだけが二つにちぎれぼろぼろになって、他の19通のはがきとは別のところにしまわれていたのだろう。もしかしたら母はこのはがきを肌身離さず持っていったのかもしれない。「元気で暮らせ、子供頼む」母はこれを守った。

『今お電話を仕様としたのですが、一寸も出ないのでまた端書を出します。又お芋お願いしたいのですが。今ご飯むし一ふかしでとうとうなくなりました。お願いします。入りましたらお電話下さい。』
その後に僕の従兄弟の5人の名前が書いてあって、『昨晩はみんな帰ってきている夢を見ていました。阿佐ヶ谷も又にぎやかになってよかったなーと思っていたら、空襲になってびっくりしてしまいました』

この葉書は父が出征した後、多分母の姉、頼りにしていた阿佐ヶ谷の僕の伯母に出そうとしたのだろう。ここに出てくる名前は伯母の子供たち、僕にとっては従兄弟だ。今だからわかるのだが、僕の従兄弟たちは日中戦争で中国にいたり、北海道の大学へ行ったりしていた。戦争の末期他の人たちも阿佐ヶ谷を離れていたのだろうか。時が経った。現在元気なのは一人だけだ。
母は切羽詰ってこのはがきを書いたけど出せなかったのかもしれない。
でもなぜ母はこの出さなかったはがきをとっておいたのだろう。

「吾子の生い立ち」にはこういうことは書かれていない。僕は父からの出発直前のはがきよりこちらの‘芋‘を送ってほしいという`はがき`を読むのが辛い。「また」とも書いてある。何度も無心したのだろうか。出さなかった、或いは出せなかった母。書いた後電話が通じたのかもしれないが、父のいなくなった生活を思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿