日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

ノンフィクションとフィクション:沢木耕太郎と稲葉なおとの場合(Ⅰ)

2011-11-23 21:15:30 | 日々・音楽・BOOK

―バーボン・ストリ-ト―

文庫本がいいのは、小ぶりでめくりやすく電車の座席で読むのに具合がいい上に安価だからだが、もう一つ気に入っていることがある。全てにではないが、著者の「あとがき」や識者による「解説文」あるいは「著者へのオマージュ」が書かれていることだ。

このブログに自分で書いた沢木耕太郎の`深夜特急ノート`に刺激され、書棚にあった沢木の「バーボン・ストリート」を引っ張り出した。この文庫本は平成元年の発行だからすでに23年を経ていて、収録されている15編のどれをも読んだ記憶がないことにも驚いたが、7歳若い沢木がこのおしゃれなエッセイを書いたのが41歳だということにもある種の感動を覚えた。
書かれているエピソードが物語のようにカッコいい!

ここには山口瞳が解説文を書いているが、この軽妙な一文にも触発された。この中にこういう一節がある。
「・・・ヤラレタ、完全にヤラレタと思ったものだ。それはノンフィクションをフィクションのように書く、エッセイを小説のように書く作家に遂にめぐりあったような気がしたからだ」。

この一言を、23年を経たとは言え読んだ覚えがないということを考えると(書棚にあるのだから読んでないはずはないのだが?)、やっとこの面白さがわかる歳になったのかと一人でにやりとしたくなる。41歳の沢木に触発される。俺もまだ若い!・・・といいたくなることに苦笑だ。

さて、このバーボン・ストリートに「死んじまってうれしいぜ」というタイトルの一編がある。ネオンが点滅するロサンゼルスの安宿に泊った沢木はこう書く。
「フリップ・マーロウの町だった。この町でチャンドラーの世界の男たちは会い、分かれていったのかと思った」そしてその思いをもってニューオリンズに寄りバーボン・ストリートでデキシーランド・ジャズを聴く。こういう曲があった。「お前が死んじまって俺はうれしいぜ、この馬鹿家郎が!」。
ここには強い語調の底にたたえられた深い悲しみがある。男が男を埋葬するときの惜別の辞としてこれ以上のものはない。・・自分が死んだときには、「死んじまってうれしいぜ、この馬鹿家郎が!」といってくれる友人を、一人くらいは持ちたいものだと思う。

―この国の大臣の友人に対する思いの一言を、この国のプレスとジャーナリストが鬼の首を取ったように指弾したことに、僕はこの国の危機を憶えるのだ。そしてそれに乗っかる政治家がこの国を仕切る―

沢木はノンフィクションをフィクションのように書くが、フィクションをノンフィクションのように書く作家がいる。インドを舞台にした旅行記で、JTB紀行文学大賞奨励賞を受賞した`稲葉なおと`だ。(この稿続く)



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