日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄の原風景の一端に想いを寄せる!(追記的に・・・)

2017-10-08 17:08:47 | 沖縄考

改めてこの日の(2017年の冬)沖縄紀行を振り返り、2月20日に「紙漉所跡」に案内してくれた建築家`根路銘安史`に感謝したいと思った。前項でも触れたが、前稿を補足しながら下記石碑に刻まれた全文(日本語の箇所:英文と筆で書かれた文書を除く)を、後日の沖縄考の資料として記載しておくことにした。 

手元に「沖縄拝所巡り」(那覇出版社・比嘉朝進著)があり、ここには300箇所にも及ぶ首里拝み、那覇の寺社参り、那覇の拝所、等々様々な拝所の紹介があって奥深い沖縄文化の原点に目を向ける事になる。訪沖のときには持参せず、案内してくれる沖縄の人の(主として建築家)案内に身を託すことにしているが、稀には帰郷してからこの本をめくってみたりする。さて・・・下記石碑より。 

紙漉所跡(カミスキジョアト):Site of the Takaraguti Kamisukijyo  

琉球王国時代から昭和初期にかけての紙漉所跡。宝口の紙漉所ともいう。琉球における紙漉きの技術は、大見武慿武(おおみたけひょうぶ)が1686年鹿児島へ赴き造紙法を修行。帰国後の1695年に首里金城村に宅地を賜り、杉原紙(すいばらかみ)・百田紙を漉いたのに始まる(金城の紙漉所)。1717年祖慶清寄・比嘉乗昌らが芭蕉紙を始めて作り、翌年王府の援助を受け首里山川村に一宅を設けて紙漉所とした(山川の紙漉所)。以来、カジノキ、糸芭蕉・青雁皮を原料に、色半紙・広紙・奉書紙・藁紙なども作られた。 

宝口の紙透所は、1840年首里儀保村の一角「宝口」に家屋建て製紙区域とし、製造が途絶えていた百田紙の製作を行わせたのに始まる。これにより宝口では百田紙、山川では芭蕉紙が作られたとされる。 

紙透は王府野矢久祥「神座」の監理のもと行われたが、1879年(明治12)の琉球処分の後も、此の一帯では民間の手で紙透が続きられた。・・・』               < 写真:紙漉所跡からの帰路>