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[ 軍人 今村均の生涯 ]

[ 軍人 今村均の生涯 ]
【イサク(@bER2YpZXY3TapXc)さんのTw(2023年1月9日)を再掲】
マッカーサーはその男を知るや「私は日本に来て、初めて真の武士道を見た思いだった」と語った。
その男とは今村均の事である。
今村均は1886年6月28日宮城県仙台区に生まれた。
1915年に陸軍大学を卒業、関東軍参謀副長、第五師団長を歴任した後、オランダ領インド諸島攻略司令官に就任。
僅か三ヶ月の

戦いでオランダ領のインドネシアのジャワ島を占領します。
ジャワ島の統治をする事になった今村は、各所に学校などの施設を建設。
インドネシアの独立歌のレコードを東京で造り現地の人に配布、大変に喜ばれた。
捕虜となったオランダ兵にも敵対行為をしない限り、自由に行動する事を許した。
この頃、

日本では衣服が不足しており、ジャワで生産される日本綿を送る様に日本政府から要求されますが、日本綿の輸出は死者を日本綿で包んで埋蔵する、ジャワ人の習慣を破壊する事になるとこれを拒否している。
この事もあって、今村はやがてニューブリテン島のラバウル基地へ移動させられます。
今村が去った後

ジャワ島の統治は厳しくなり現地人の日本への反発が強まっていきます。
ラバウルに着いた今村は、やがて補給路が絶たれる危険性を予見し自給自足の政策を取ります。田畑を広げ1945年には兵一人あたり200坪の耕地面積を持ち、アメリカ軍に包囲された後も10万人の日本兵は飢える事がなかったと言います。

さらに敵機からの攻撃を避けるために地下要塞を創り上げ、この事を知ったアメリカ軍はラバウル攻略を諦め撤退、今村は終戦まで10万の日本兵を守り抜いた。
戦後、戦犯として死刑判決を受けるがジャワ島民の嘆願によって懲役10年の刑に減刑されます。
東京の巣鴨に収監されますが、かっての部下が

ニューギニアで厳しい刑罰を受けている事を知ると「私もニューギニアで部下と共に収監されたい」とマッカーサーに直訴し認められます。
今村がやって来ると、部下たちは喜び大いに励まされたそうです。
晩年の今村は、自宅のそばに三畳ほどの小屋を建て幽閉生活を送った様です。
そして回顧録を出版し、

印税は全て戦死した部下の遺族に送られました。
1968年、ラストサムライは82才の生涯を閉じます。
合掌。
https://twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1612289608133509121?s=20&t=IxQxcyD0YQ364d5Q0EGoIQ

【追記】
https://mixi.jp/view_community_voice.pl?comm_id=3352281&from=community_feed_created_photo&id=98988933

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