70歳の父が最近たくさんある写真、アルバムの整理をしているという。
私たち家族ができてから、カメラ好きの父が撮った写真の一部はアルバムに収められているけれど、収納されていないものが多く、それは大変な作業だと思います。
最近父は手帳に、保険のこととか、土地のこととかの覚書のようなものを書いている。
「いつ死んでもおまえたちが困らないようにしようと思って」というのがその理由で、「死ぬ準備をして、長生きしてください」というのがやっとでした。
母は若くして亡くなったけれど、何となく父のそれはイメージできないし、言葉にするのも憚られるので、自分が死ぬことを意識して、片付け始めていることを聞いて、何と言っていいのか分らなかった。
でも70歳まで生きるとそういうことも考えるのかもしれないと思うと、父も齢をとったのだと思うし、それは自分も齢をとったと認めざるを得ない。
孔子が言った十有五にして学に志す心境はスルーしてしまったけれど、四十にして惑わずの心境は自分の状況に置き換えて実感することができました。
それまで自分の仕事においてジレンマに思えていた様々なことが、自分の中でスッと溶けたような感じがした。
今なら若い時の自分に上手く説明することができるような気がします。
若いときにあれこれ考えていたことが嘘のように解決したのは、40歳くらいになってからで、それまで答えを探し続けていたのは何だったのかと思います。
三十にして立てなかったけれど、20代から30代になる時に、このままでいいのかという想いがとても強くなりました。
10代の時の漠然とした将来の不安とは違う、このままズルズルと行きたくない、何かを変えないといけないという焦りのような心境が30になる時にあって、もしかしたら共感してくれる30前の人がたくさんいるかもしれません。
五十にして天命を知るということになっていて、一生懸命に生きている人には天命が下されるという。
私には天命が下っているものだと思っていたけれど、まだ何かあるのか、楽しみにしている。
それが天罰でなければいいけれど。
2500年以上も前に中国に生まれた人の齢を追うごとの心境を割と皆が形は違っても同じように感じるのは、人間のDNAにこのような心境がプログラムされているのかもしれません。
でも分らなかったこと、実感できなかったことが分っていくのは何か楽しいような気がします。
ありがとうございます。本当にそれに当てはまらないこともあるし、人それぞれだと思うけれど、そういう教えのようなものに対して、自分の人生を考えるのが好きで、こういうことを書きます。