江戸の笑いの海へ

江戸時代の笑い話や川柳の世界、そして、その当時の人々の暮らしぶりやものの考え方などを一緒に考えてみませんか。

メガネをめぐる減らず口

2009年04月05日 | Weblog
次のような江戸時代の笑い話がある。

親父減らず口
さる所に親父あつて、
隙々(すきずき)には書物を楽しまれけるが、
ある時、本読み本読み居眠られしかば、
子供、親父を起こし、
「眠るにも眼鏡(めがね)が要りますか」
と言へば、親父もぬからぬ顔して、
「俺は眠るにもうつかりとは居眠らぬ」
「なぜにえ」
「夢を見るわな」
    『軽口若夷』(寛保2年 1742年)


「眼鏡を掛けたまま、居眠りをしているよ」
という息子の言葉に対し、
「おっと、つい、うっかり…」
と素直に応じていれば、
「お父さんは向学心が旺盛で…」
「そんな大層なことではないよ」
「本当、読書に精が出ますよね。感心させられます」
「気の向くまま、読みたい本を読んでいるだけだよ」
「お父さんを見習い、私も一生涯、勉学に励みたいものだと…」
「そうか、そうか」
という和やかな展開になったはずなのに…。
減らず口を叩いたために、
「口の減らない親父だ。
そうやって本ばかり読んでいるから、口が達者になって、
そんな減らず口を叩くんだ。本なんて、もってのほかだ」
などと、滅茶苦茶なことになるのだ。


銭湯での減らず口

2008年12月15日 | Weblog
 減らず口や言い抜け、負け惜しみなどというのは、
あまり心地のよいものではない。
 人に嫌悪感を抱かせもするし、
物笑いのネタにされることにもなる。
 
 次のような江戸の笑い話がある。

 うかつなる人、湯へ入るとて、頭巾(ずきん)、
足袋(たび)をはきながら裸になりて流しへ出る。
湯屋の亭主、
「それ、足袋を脱がしゃれ」
と言ふ。
「いや、滑るによつて履く」
と言ふ。
「頭巾はいかに」
と言へば、
「湯舟の上から露が落ちる」
と。
     『はなし大全』(貞享4年 1687)

 足袋を履いたままなのは、
「滑るといけないので」、
頭巾を被ったままなのは、
「天井から雫が落ちてくるからだ」という。
素直に、
「あっ、つい、うっかりしてた」
と言えばいいのに…。
 

御七夜のお祝い

2008年10月01日 | Weblog
江戸の笑い話に次のようなものがある。
「人の情」という話だ。

 ある人、座敷を立直し、
近所の人を新宅へ申入れて振舞ひける。
酒半(なか)ばに内方(うちかた)出て、
「何もござりませぬが、新宅をご馳走に酒一つ参りませ」
と言はれければ、一座、
「さりとてはお物入りでござらふが、結構なご普請でござる」
と言ふ。
内方、
「うちの力ばかりではござらぬ。皆、近所の衆のお蔭じゃ」
と言ふ。
与茂作、帰りて話しけるは、
「それ殿の内義は、さりとては過を言はぬ理発な人じゃ。
あの身代で誰に合力を得られふぞ」
と賞めける。
女房、
「それ程の事が言はれぬものか」
と言ひけるが、十四、五日経て喜びをしたり。
七夜の祝ひとて、近所の衆を呼びたり。
「今日は目出度し、御内義も喜びでござろふ。
安々と御平産、殊に男子でござる」
など言ひければ、女房、まかり出て、
「亭主ばかりの力で出来たではござらぬ。
皆、近所の若い衆のお蔭じゃ」
と言ふた。
        『枝珊瑚珠』(元禄三年 一六九〇)

御目出度い新築祝い、その家の御内義(おないぎ)が
酒宴の席に姿を見せ、
「これといった御馳走はございませんが、
本日はこの新しい家を肴に
心置きなくお酒をお召し上がりいただければ幸いです」
とのあいさつ。
これに対し、祝いの席に招かれた与茂作たち長屋の面々が、
「立派な家だなぁ」
「羨ましいなぁ。俺もこんな家に住みたいよ」
「あやかりたいよ」
「これもひとえに旦那の働き…」
と、異口同音に褒め上げる。すると、御内義、
「いえいえ、うちの亭主の力ばかりではございません。
私どもがこのような家をこさえることができたのは、
ここにいらっしゃる御近所の皆さんの御蔭でございます」
新築祝いの席から帰宅した与茂作は、
その様を女房に語って聞かせる。
「あのような立派な家を建てた旦那の働きもさすがだが、
『うちの亭主の力ばかりではございません。
御近所の皆さんの御蔭でございます』などという言葉が
口から出るあの御内義も大した人だ」
「何でもないわよ、そんなこと。私だって、いくらでも言えるわよ」
「…」
それから二週間ほど後、
身重だった与茂作の女房が男の子を産み、
御七夜の祝いに招かれた長屋の面々、
「無事の出産、おめでとうございます」
「元気な男の子、重ねてお祝い申し上げます」
「しっかりした、たくましい面つきの子だ」
「羨ましい限りだ。俺もこんな子が欲しいよ」
「あやかりたいよ」
「これもひとえに旦那の働き…」
と、異口同音に褒め上げる。すると、女房、
「いえいえ、うちの亭主の力ばかりではございません。
私がこのような子をこさえることができたのは、
ここにいらっしゃる御近所の若い皆さんが寄ってたかって
可愛がってくれた御蔭でございます」

柳腰

2008年08月25日 | Weblog
柳腰とは、枝垂れ柳のようにしなやかで、
たおやかで、ほっそりと、しとやかな腰のことだ、
と私は考えている。
ところが、

聟(むこ)選(えら)みする内(うち)柳臼になり
   『誹風柳多留拾遺』2篇(享和元年 1801)

「何て言ったらいいのかわからないけど、
いまひとつフィーリングが合わないのよね、
あの人って…」などと、
聟の選り好みをしているうちに歳月が過ぎ、
気がついてみると、
かつてのほっそりとした柳腰が、
どっしりと、分厚くて、たわわで、
でっちりとした臼のようなものに
変じてしまっていたという。
「臼とはまた…、言い得て妙」
などと口にしてしまったら、不謹慎だろうか。
実はそのような不謹慎で、
不穏当な発言をしてしまった人が江戸時代にもいたらしく、
それをリカバリーしようとして詠んだのではないかと
思われる川柳がある。

大木になってもどこか柳なり 
  『誹風柳多留』4篇(明和6年 1769)

「柳の大木のような堂々とした腰付きになっても、
かつての優美で、細やかな柳腰の面影がまだかすかに…、
どことは言えないが、どこかに残っているよ」
というのだが、
これは有効なリカバリーになっているのだろうか。
かえって墓穴をさらに深くしてしまってはいないだろうか。


江戸の笑いを読む

2008年08月24日 | Weblog
江戸の笑いを取り上げた本を紹介します。
「寒い国の大風呂敷」という本です。

手軽に読めて、とても面白い本です。

江戸の笑い話や川柳を取り上げ、
紹介しています。

希望する方は
次のサイトからどうぞ
http://secure.frontea.com/~rekishun/catalog/default.php/cPath/28