今日も一日が過ぎた

2012-04-24 10:13:34 | インポート


おっはようございま~す。何故か今朝もあたしが登場よ。マリーで~す。

うちのおばはんは昨日、歯医者さんに行って歯周病の進行している上の前歯の今後の治療の方針とこれからの進め方の予定を聞いてきたの。歯の根はしっかりしているし、今から抜いてしまってはもったいないから、歯肉の患部を切り取るフラップ手術だったかなあ、そんな名前の手術をして助けられるかどうか様子をみるんですって。ただねえ、手術の前に何度も検査が必要で、実際の手術は7月になるんですってよ。

うちのおばはん、結構、神経質なところがあるから、入れ歯にしたらたぶんいらいらして奥歯の一本だけ入れ歯になっているところとおなじで、そのうちに歯を入れなくなって歯なしの顔で平気になっちゃう気がするのよねえ。あの人、見た目なんてあんまり気にしないんだもん。でもいくらなんでもまだ歯なしのおばはんになるのは早すぎるわよ。手術がうまくいくようにあたしだって願ってるわ。

でもとにかく、歯のほうは今後の方針も決まって、うちのおばはんもさすがに一安心したらしいわよ。まだもうしばらくはちゃんと聖歌や賛美歌を歌えたほうがうれしいらしいのよ。たいして歌が上手なわけじゃないけど、あの人にとっては歌うことと祈ることがすごく近いのよね。そりゃあ歌わなくったって祈りにどうしても必要じゃないといえばいえるけど、あの人、人前で祈るのも口下手だから言葉がうまくでてこないの。だから自分の言葉で祈るのが好きじゃないのよ。

大体さあ、どうして祈りって言うと口で祈る祈りだけなの? どうもよくわかんないわ。祈りって神様とお話したり一緒にそばにいることでしょう。文章は書けても口は苦手なうちのおばはんなんてさ、本当は分かち合いだとかほかの人と一緒の場での祈りって好きじゃないのよね。もっと神様とプライベートなお付き合いをする祈りって言うのもあるんじゃないの?

教会ではどうして言葉のない祈りについてはあまりおしえないのかしらねえ。言葉がなくても神様を感じる祈りだってあるんじゃないの?

言葉がなくても神様はいつだってすぐそばにいて何もかも見ていてご存知なのよねえ。うちのおばはん流にいうとさ、あの人と神様の関係は、あの人と、子供のころにあの人が飼っていたチビちゃんって言う犬の関係によく似てるんですってよ。神様の前ではあの人はチビちゃんそっくりで、いいことも悪いことも全部知られているのね。言ってしまえばトイレでウンチをしている時だって全部神様の前ではまったく丸見えの裸なのよね。かっこいいところだけのお付き合いなんて神様の前では通用しないんだわ。そこにはたくさんの言葉じゃなくて、たぶん沈黙で十分なんだわ。

ただ、聖歌を歌ったりすることはその言葉のない神様とのお付き合いのよい入り口ってわけなのよね。今は亡き霜山徳爾先生が日本人の宗教性の特質でだったか「美を通して真実へ」っておっしゃっていたのよ。教会音楽を聴いたり聖歌を歌ったりして心が祈りに向かうっていうのも、要はそれなんだと思うの。歌えなければ歌えないでほかの入り口もあるけれど、なるべくなら歌えるほうがうれしいじゃないの。歌えるように自分のほんとの歯があったほうがうれしいじゃないの。

ってわけで、歯医者さんの今後の予定が決まってあの人も気分が落ち着いたんじゃないのかしら。ほかの大事な問題にも目が向き始めたみたいよ。でも長くなっちゃったから今日はここまでね。

ほんじゃまたね。Ciao


 


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