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「初恋」と「デスノート」から考える若者のエネルギーの社会学

2006-06-17 00:43:02 | 社会学
学生運動に東京オリンピックにビートルズにアポロに、
1960年代、何かを変えようとする力が皆にみなぎっていたように思う。
私は全てを肯定しているのではない。しかしエネルギーを感じるのだ。
初恋」は、権力に対する反発で学生運動、三億円事件を描いた。
これに対比して考えたいのが「デスノート」。
公開も今日となり、コミックも壮絶な人気を誇り、映画の前売券も勢いがあるとのこと。
コミックのおもしろさがどういう理由であれ、
社会として「デスノート」が支持されているということは、私は社会の病理だと思っている。
コミックの中でも、得体の知れない者によって、
社会から逸脱した人間を処罰してく社会をどう思うか、
街頭インタビューしているシーンがあった。
犯罪者を罰するのだからよいではないか、とも思うし、
犯罪者であっても単純に殺してはいけないという意見もあるし、
きっと実社会で街頭インタビューをしても、
これは難しい質問で、ホンネとタテマエの出るものだろう。

「デスノート」の人気を緻密な心理合戦だと言われるかもしれないが、
本当にそれだけだろうか。
やはり、ノートに名前を書くだけで人を殺すというカンタンな手段が病理なのだ。
少年犯罪の話を書き出すと、文字数が完全にオーバーするので、
読者のニュースの量を信じたいのと、
今、私に確実のデータをそろえていないので、学問としては未熟ではあるが、
少年少女が加害者の殺傷事件は低年齢化している。
大人になれていないオトナがたくさんいる。
簡単にキレて、殺意を抱いてしまう。理性ではなく感情で生きている。
そんな時代だから、
簡単に殺せるノートに人気が出たのではないだろうか。

決して学生運動や三億円事件(真相は今もわからないが)や暴動や反乱などを
肯定しているのではない。
しかし、1960年代と2000年代で違うことは、
若者のエネルギーの方向性だ。
時代に立ち向かっていった彼ら、文句ばかりたれて時代のせいにばかりしている我ら。
もしかしたら文句どころか考えることすらやめてしまった人もいるかもしれない。
青い人間のエネルギーはどこへ行ったのだろうか。
「デスノート」で主人公は、よりよい世界にするためにノートを使っているが、
(それは正義から主人公自身も犯罪者となっていくのだけれど)、
ほとんどの人間がそのノートを手にしたとき、
自分の都合で使うのではないだろうか。
家でひとりでこもっていては駄目だ、
社会に出なさい、そしていろんな人と話して自分と違った意見を聞きなさい、
自分を否定されても議論しなさい。
自分を着飾ってばかりだったり、
ヘッドホンをしながら自分の世界で道を歩いていては駄目だ、
社会を見なさい。
そういった点で、1960年代の方がずっと健全だと思うのだ。

社会と向き合え、若者達よ、そして闘え!!



P.S.少々(?!)無理のある記事ですけど、
卒論で悩んでいる大学生がいたら、ぜひこの続きを引き継いでくださいまし。


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