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星野道夫なる人物が今日少しづつわかりはじめた。
「もはや風景の単なる描写などではなく、深い哲学的な思索の世界」
と彼を紹介する文は充分うなづけます。
難しい文体は無く平易で心にすぐ飛び込んでくる描写だ。
~以下抜粋~
子供のころに見た風景が、ずっと心の中に残ることがある。
いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立ったとき、
人の言葉でなく、いつか見た風景に励まされたり、
勇気を与えられたりすることがきっとある。
「仕事は忙しかったけど、本当にアラスカにきて良かった。
なぜかって?東京で忙しい日々を送っているそのとき、
アラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない。
そのことを知れただけでよかったんだ。」
僕には彼の気持ちが痛いほどよくわかった。
日々の暮らしに追われている時、もう一つの別な時間が流れている。
それを悠久の自然といってもよいだろう。
そのことを知ることができたなら、
いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、
それは生きてゆくうえで一つの力になるような気がするのだ。
~ここまで~
僕が山に行く理由はそこに山があるわけではなく(全く当たっていないわけではないが)、
そこには別の時間が流れているからだ。それは子供のころのそれと似ているような気もする。
資本主義に毒されていない、必要を生み出すのではなく、必要だから行うという行為。
そして、人為的に作られた情報が全く無い世界。はるかはるか先祖がみたものと同じ風景。
けっして困難な登攀を目指したりそれに快感を得たりしているわけではない。
そこにたどりつくためのツールの一つとして訓練を行っているわけである。
山スキーもダイビングも沢登りもそう。
それぞれのちょっとしたテクニック的な楽しみが無いわけではないが。
ふりかえれば20歳のころ、僕は人生が何なのかわからなくなっていた。
留年もした。その前後ちょっとした欝になっていた。
ぐるぐると無限回廊から抜け出せずにいた。
そんなときひょっと白井小屋に行く機会があった。
札幌市内にこんなに綺麗な星空が見えるところがあったなんて・・・。
小屋のまわりの木々からは、ちょっと大げさだが、クリスマスツリーのごとく、
星の光が漏れ出してきていた。失っていたものを心に取り戻すことができた。
無限回廊からやっと抜け出せたのである。そっからは軽い躁状態であり、
現在までに至る。
悠久の大自然はいつも、君が扉をノックしてくれるのを待っている。
逆を言えば自ら誰の前にも出てはこない。
いつの日か、大自然にあこがれてその扉をノックしてみたものの、
遅く生まれすぎたこと、その価値に気付くのに遅れたことを悔やむかもしれない。
いまならまだ間に合う。まずは身近な大自然の扉をそっとノックしてみよう。
あ、ちなみに本は部室に置いておきます。
さかのぼって読ませていただきましたけど、たいへんなお仕事ですね。
なんだか、じぶんが非常にのんきな世界に生きているように思われてきて、しばし考えさせられました。
きっと僕は看護士にはなれないと思います(笑)。
新聞記事書けるの羨ましいです。
ヤナイさんのリンク、非常によくまとまっていて
つかわさせていただきます。
「日々の暮らしに追われている時、もう一つの別な時間が流れている・・・」
私はアラスカなどへは行けませんしアラスカで一人テント生活も出来そうにありませんがせめてニセコの地で自然への思いを馳せることで星野さんを感じていたいと思います。
これからもよろしくお願いします。
ニセコも充分素敵な時間が流れていると思います。
自分のために使う時間。
それだけで羨ましいと思います。
羊蹄山を見ているだけで幸せな気持ちになれますよね。