先日から、神さまを愛することについて考えています。
私たちクリスチャンは、神さまに愛されている事は知っています。
十字架の愛、恵み、祝福などたくさん頂いて、感謝もしています。
だからといって、自動的に神さまを深く愛するようになるとは限りません。
もちろん、そんなイエスさまは好きです。
大好きだと言って賛美もします。奉仕もします。捧げることもするでしょう。
でも、心から愛することとは、もう少し違うような気がします。
たとえば誰でも中学生ぐらいの頃には、好きな人が出来るでしょう。
私は大人になるまでは、いつも片思いでしたが、
人を好きになる事だけでも、もうかなり幸せを感じたものです。
その人の行動を目で追いかけ、少し見られただけで嬉しくなり、
用事があって名前を呼ばれただけなのに、喜びがはち切れそうでした(笑)
そこで思うのですが、人は愛されるだけでは充分な満足はなく、
「愛する」時、「愛し合う時」に、本当の満足感を覚えるものだと思うのです。
イエスさまが私のために死んで下さった事は有難いし、
罪の赦しは嬉しいし、心から感謝してはいるとしても、
まだ心底から愛する気持ちになれない事もあると思います(実感として)。
ちょっと的外れな例えかも知れませんが、
先ほどの中学生の女の子がある日いきなり、
見たこともない、とても素敵な男子に熱烈な告白された時のようです。
頭も良いし、運動も出来るし、とても優しそうで素敵な人だけど、
まだ、その人の事をほとんど知らず、好みの人かどうかもよくわかりません。
そんな風に、神さまは私たちを熱烈に愛して下さるのですが、
私たちには、まだ心の準備が整っていないかも知れません。
人によっては、あまりの愛に感動して、すぐに愛するようになるでしょう。
しかし、気持ちがゆっくりついて行くタイプの人もいます。
毎週礼拝して、大声で賛美して、お祈りしていても、
まだ、深く神さまを愛しているとは限りません。
しかし、そんな私をイエスさまは急かしたりはなさらず、
ゆっくり愛の起きる時を待っていて下さいます。
そして、私の中にある神への愛を見つけて出して下さるのです。
そうです。私が知らなくても神さまの方が、
私の心の奥にある、「神への愛」に気づいて下さるんです。
クリスチャンは、必ず心に神への愛を持っています。
(信じていない場合には、クリスチャンとは呼べないから)
でも、未熟だったり、傷ついた所や恐れがあって、
それに気がつかないこともあるのです。
ですから、復活されたイエスさまがぺテロに尋ねられたように、
「あなたは私を愛するか?」と聞いて、その心に気づかせて下さいます。
クリスチャンは皆、イエスさまを愛しています。
この時点でやっと愛し合う関係が始まります。
神さまは焦ってはおられません。
愛の自ずから起きるまで待っておられるんです。(雅歌参照)
その時から愛されるだけのクリスチャンから、
神さまと、愛し合うクリスチャンの喜びが始まるんだと思います。
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。
ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
(ヨハネによる福音書 21:15抜粋)
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