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新田次郎『劒岳―点の記』を読みました(その1)

2013-06-30 01:50:31 | 日記



こんにちは。

新田次郎『劒岳―点の記』(文春文庫;407ページ)を読み終えました。

【裏表紙の紹介文】
 日露戦争直後、前人未踏といわれ、また、決して登ってはいけない山と恐れられた北アルプス、劔岳山頂に三角点埋設の至上命令を受けた測量官、柴崎芳太郎。器財の運搬、悪天候、地元の反感など様々な困難と闘いながら柴崎の一行は山頂を目ざして進んでゆく。そして、設立間もない日本山岳会隊の影が。山岳小説の白眉といえる。


【この本の私の読み方】
 この物語は、柴崎芳太郎らが1907年に劔岳に登頂したことを描いています。
 1907年といえば、日露戦争が1905年に終わっていますから、その2年後です。
 柴崎の仕事は、日露戦争と比べれば地味にみえるけれども、決してそうではなく、その静かな戦いにひかれるものがありました。それが本書を読んでみようと思った動機です。

 まず、原作を読みました。その際、地形図をみながら読みました。あたりまえですが、地形図には等高線が描かれていて、山の急峻な様子や地名がよくわかります。
 しかし、いまひとつ映像(景色)としては伝わってこないので映画『劒岳―点の記』のDVDをみました。原作の印象はかわってしまうのか、迫力のある映像は原作をさらに輝かせるのか、そんな気持ちからDVDをみようと思ったのです。
 

 まず、「劔岳」、「三角点」、「柴崎芳太郎」などについて見ていきます。


【劔岳】
 「劔岳」は、富山県にある2,999mの山です。
 
 wikiによると、次のようにあります。
 
 日本国内で「一般登山者が登る山のうちでは危険度の最も高い山」とされる。これは、その一般ルートが、一服剱 - 前剱 - 本峰の間で、岩稜伝いの鎖場やハシゴのルートになることによる。難所としてカニのヨコバイ・カニのタテバイと呼ばれる鎖場があるが、実際には、より容易な稜線で滑落事故などが発生している。また、クライマーと呼ばれる一流登山家も、その岩場や雪山で、多くの命を落としている。
 (中略)
 剱岳は古来、立山修験と呼ばれる山岳信仰の対象であり雄山神社の祭神の一柱である天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の神体として信仰を集めてきた。一方立山信仰では「針山地獄」とされ立山連峰のほかの頂きから参拝する山であって、登ることが許されなかった。
 (中略)
 弘法大師が草鞋千足(三千足または六千足ともいう)を費やしても登頂できなかった、という伝説がある。近代登山としての歴史は浅いが、古くから不動明王として崇拝され、信仰対象として修験者に登られていた。明確な記録に残る初登頂は、陸軍参謀本部陸地測量部の測量官、柴崎芳太郎麾下の測量隊によるものである。
 
 1907年(明治40年)7月13日 - 測量隊の測夫・生田信らが長次郎雪渓ルートから本峰の登頂に成功した。
1907年7月28日 - 柴崎らが登頂した。この登頂日は長らく不明とされていたが、2007年(平成19年)に「四等覘標高程手簿」が発見され、柴崎の登頂日が明らかになった。このときの案内人は、地元在住の宇治長次郎である。もっとも、宇治は信仰上の理由から、山頂は踏まなかったとする説が有力である。これについては一切文書の記録がなく、新田次郎が『劒岳 点の記』を執筆した際の資料などに伝聞記録があるのみである。
 
 柴崎隊以前に数例の登山の記録や伝説・口碑が存在する。生田らによる最初の登頂の際、錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖が発見された。これらの遺物は当時の鑑定では奈良時代後半から平安時代初期にかけて登頂した修験者のものと考えられた。山頂近くの岩屋には古い焚き火跡もあったという。これらの遺物は立山修験の貴重な証しとして重要文化財に指定され、柴崎の死後、遺族から寄贈されて立山町芦峅寺の立山博物館に展示されている。

 柴崎らは、登頂の困難さから重い三角点標石や特にかさばるやぐらを組む丸太を運び上げることができず、山頂には立ったものの三等三角点の設置を断念し、山頂には標石のない四等三角点を置いた。、また三角点の設置場所を記載する「点の記」の作成は三等以上との規定のため、剱岳の点の記は作成されなかった。

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 しばらく、『劒岳―点の記』についてブログを続けたいと思います。

 今日も来てくださってありがとうございました。

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