扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

知恵出ずる人の城 百名城19−川越城

2012年02月01日 | 日本100名城・続100名城

年があけたがまだどこにも出かけていないに等しい。
日本100名城巡りは現在、72城を落とし、残りが28城。

今年は例年以上に寒いこともあり城巡りにクルマで出かけるには少々条件が厳しい。
今日はわずかに気温が上がりそうとのことで未訪問の城の内、最も近い川越城に行くことにした。

調布から川越は北へ30km。
距離的には西の青梅、東の船橋、南の厚木といったところの距離感になろうか。
これを同心円にとれば中は全て関東平野、この平地は広い。
そのためのろのろと北上していっても景色が変わることが全くない。
冬の晴天がまことに広々としている。
関東平野をクルマで行くのは味気ない。

川越といえば、まずは河越夜戦。
小田原の北条氏が北関東を制覇するターニングポイントである。

板東が古代の眠りから覚めるのは平将門の乱あたりであろうか。
都の影響薄く一人称で戦をすることのうまみを覚えた武者たちが抗争を始める。
そして源氏の世になると頼朝創業期に彼を助けた武士はいちはやく出世し、機会を逃した者は頼朝の奥州征討に応じて北上し、功を挙げたものは彼の地で地頭になった。

川越には河越荘を本貫とする河越氏がいた。
桓武平氏の河越氏は平家追討戦に従事し河越重頼の娘が義経の正室になっていることで知られる。
頼朝と義経が絶縁すると当然、義経の外戚であることから誅殺される。

鎌倉、南北朝期の権力闘争に河越氏の名が都度みられるが政局を動かすほどの力はない。
ふたたび河越の名が登場してくるのが戦国時代になる。
太田道灌の名と共にである。

扇谷上杉氏の家宰、太田道灌は古河公方との対立に対応するため利根川の西側に河越城を築く。
町としての川越の歴史はここから始まるといっていい。

河越夜戦とは天文15年(1546)、河越城を守る北条氏を関東管領上杉憲政が率いる大軍が包囲する中、後詰に来た北条氏康の軍が城兵と呼応して奇襲、散々に上杉連合軍を叩いた戦いである。
この戦は日本三大奇襲戦(他に桶狭間、厳島)のひとつとされているが、他のふたつが古戦場として訪れた場合、かろうじて往時の合戦模様をしのぶことができるのに対し、河越城のあたりに戦史好きが行くという話を聞いたことがない。

要するに気分が盛り上がらないのである。
旧川越街道である国道254号を行き川越市街に入っても近所に買い物に来たような気持ちである。
川越に来るのは初めてであり関東や関西の都市部をうろうろする時に感じる情感のなさはここでも同じであるのはつらい。

川越城址には本丸御殿が残っている。
城巡りのポイントであるが正面からみてもしょっと派手な木造小学校のような面構えである。
100円払うと中に入れる。
玄関を上がると廊下の向こうに大広間、廊下は広く天井は高い。
この御殿はほんの一部しか現存しておらず御殿はの市民野球場、博物館・美術館、川越高校に囲まれ文字通り立つ瀬がない。

川越城は北条氏滅亡の後に入った徳川家康家臣の酒井重忠に与えられ川越藩が成立、この時の石高はわずか1万石。
重忠の嫡男が忠世、この家は雅楽頭系と呼ばれる。後に姫路に行く。
もうひとつの系統が左衛門尉系、こちらで有名なのが徳川四天王のひとり忠次、孫の忠勝が庄内に行く。
酒井は系統が多くてややこしい。

川越藩は重忠の後、その弟忠利が継いだ。城下に時の鐘を設けたのがこの人である。
忠利の長男が忠勝、庄内の忠勝と同名だがこちらの忠勝は秀忠に重用され老中を務める。
家光が将軍になると忠勝は土井利勝と共に青年将軍家光を支えた。
家光は秀忠が死ぬとやおら親政職を強めていく。
幕僚を刷新した際に父の匂いが濃かった忠勝は土井利勝と共に「敬遠」されて大老になる。
忠勝は伊達政宗と殿中相撲を取ったという逸話がある。

忠勝は小浜藩に栄転し後に封じられたのが堀田正盛、春日局の孫であり、生え抜きの家光親衛隊である。
老中に任じられた時に家格を保つために与えられたのが川越藩であったといえる。
正盛は3年の後に松本に転じ、最後は佐倉で終わる。

堀田正盛の次の藩主が松平信綱である。

川越はこう藩主列伝をやってみるとわかるように短期間で藩主がころころと代わりその全てが幕閣の要職を務めた。
荒川一本で江戸を往来できる川越とはいえ、領地を愛でる時間も財もなかったであろう。
島原の乱を収めた信綱が入ってくる際、川越藩はようやく6万石になった。
川越城が城らしくなるのはここからであるという。

要するに私は下総佐倉城を土井利勝の城とみたように、川越城を松平信綱の城とみたいのである。

松平信綱とはあまたの江戸幕臣中、浅野内匠頭やら吉良上野介と同様官名で記憶される最右翼といえる。
彼は「知恵伊豆」と呼ばれた。
こういう愛称のもらい方は珍しい。
武家であれば「鬼武蔵」だの「槍の又左」だのという異名が誉れだろう。
しかるに「知恵伊豆」なのである。
いうまでもなく「知恵が出ずる」というだじゃれである。
「智謀湧くが如し」と称された武人には例えば竹中半兵衛、黒田官兵衛などがあたるであろう。
彼等は戦を生業とする軍師である。
信綱の生業は何であったか。

幕藩体制という200余年続いた閉鎖的ではあるが妙にのどかな江戸時代の基礎は家康が信条を遺し、秀忠が後顧の憂いの種を除き、家光が法にした。
江戸開幕余熱は家綱の代で冷えて固まった。
もちろん時代時代の謀臣がいた。
そのひとり知恵伊豆、信綱の功は大きい。

知恵伊豆の仕事のひとつに島原の乱への対応がある。
実戦経験のない信綱は緒戦の対応にしくじった幕軍の立て直しのために総大将に任じられて赴任した。
前任の大将、板倉重昌は実戦経験者であるが故に攻城戦に加わり戦死している。
遅れてやってきた知恵伊豆は兵糧攻めでこの乱を収めた。
これがシビリアンコントロールの奔りといえるかもしれない。

また、信綱は由井正雪の乱、慶安の変を鎮圧した。
江戸時代の軍事クーデター計画は幕末までこれしかない。

さらに川越城下の発展を導いたのも信綱。
忙しく銭もなかった前任者と違い、城を拡張し城下の町割りを定めた。
玉川上水を主導した信綱は領内へも野火止用水を引き込み新田開発を行った。
荒川の水運を利用した物流改革を推し進め川越街道を整備した。
物流の要として商都川越に遺した信綱の仕事である。

「知恵伊豆」の知恵とは民政に向けられたのである。

信綱は徳川がまだ松平といった頃の創業期を助けた大河内久綱の子である。
親戚のもう少し家柄のいい長沢松平家の養子に入った。
出世願望の強い少年だったらしい。
信綱の運を開いたのは家光の小姓に上がったこと、名だたる武将の家でもない信綱がハントされたのはその才気の輝きであったろう。

目利きの優れた少年は26才で伊豆守に任じられ、37才で家光六人衆(後の若年寄)になり、老中に進む。
この人の風貌は今でいうなら髪をオールバックになでつけ縦縞の舶来生地のスーツを着込んだエリート然としたものであったような気がする。
それでいて才気走って同僚を見下すような態度もなく書類の一々に目を通し気の利いた指示を部下にする。
昼飯は近所の定食屋ですませ赤提灯で飲むのをよしとしそうな感じもある。
すれ違ったOL達には「ほれほれあの方が知恵の人」と指さされそうでもある。

川越城はまさしく知恵伊豆の城といっていいがその痕跡は何もない。
御殿の玄関と広間で「城」の姿を思い出せるはずもなくつい愛すべき文官のことを思い出した。
 

Photo_2
川越城址、本丸御殿玄関
 

Photo_3
御殿の碑 
 

Photo_4
川越城縄張図、松平信綱による改修後

 


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