長野市の善光寺本尊阿弥陀如来は鎮座する以前、この元善光寺にいた。
仏像は飯田の住人本多善光(よしみつ)公が国司のお供で都へ行った際に難波の堀で拾われたものである。
後に本尊のお告げで642年に現在の位置に遷座した。
その時本尊は「毎月半分はこちらに来て衆生を救う」と告げていったといい、どちらにも本尊がおわすので両方参らなければ「片詣り」になるのである。
こちらで本日の散策終了。
長野市の善光寺本尊阿弥陀如来は鎮座する以前、この元善光寺にいた。
仏像は飯田の住人本多善光(よしみつ)公が国司のお供で都へ行った際に難波の堀で拾われたものである。
後に本尊のお告げで642年に現在の位置に遷座した。
その時本尊は「毎月半分はこちらに来て衆生を救う」と告げていったといい、どちらにも本尊がおわすので両方参らなければ「片詣り」になるのである。
こちらで本日の散策終了。
高遠から伊奈平に下りたところが駒ヶ岳。
その麓に光前寺という古刹がある。
名峰には山岳信仰が興るもの、開基は860年、天台宗の道場である。
おっくうがらずに寺院を訪ねて回るとたまに大当たりがある。
光前寺もそうで雰囲気がとてもいい。
このお寺は境内が国の名勝に指定されている。
仁王門から山門、本堂へと続く参道に杉の巨木が並び石垣の隙間のあちこちに「ヒカリゴケ」という発光する苔が自生している。
杉の合間合間に堂宇がちらちらとみえてきてとてもほっこりとする。
三重塔がまたいい。
光前寺といえば「早太郎」。
7百年前、寺で飼われていた山犬がいた。
その頃、遠州府中の見付天神社では毎年ひとりの子女を人身御供として備える習わしがあり、憂えた旅の者が様子を探ると子女をさらう怪物が信州の早太郎を怖れていることを探り当てる。
怪物が娘をさらっていくと旅の者は信州に走り、怪物がおそれる光前寺の山犬、早太郎を借りてとって返し、見事怪物を退治。
早太郎は重傷を負いつつ光前寺に帰ってくると和尚さんに一声「わん」と鳴いて息を引き取る。
和尚さんは早太郎を本堂の横に葬った。
という話である。
早太郎の墓は犬の墓としては壮大なもので石像も凜として立っている。
なかなかにいいお寺を見つけた。
諏訪大社上社から杖突峠を越えて高遠へ。
高遠城は伊奈平の東、杖突峠への入口を抑える要衝で戦国時代に武田信玄はこの要衝に一時勝頼を入れた。
武田家が滅びるときには仁科盛信が籠城して討ち死にしたことでも有名、今日では桜の名所になった。
駐車場はかつての勘助曲輪があったところ、その名の通り山本勘助が縄張したともいう。
城跡は草深く、夏草の最盛期とあって曲輪、空堀の跡も濛々としている。
歴史博物館に回って100名城のスタンプを押した。
まだ二つ目なので先は遠い。
家人を連れて実家に遊びに行くことにした。
中央道を道草しながらゆるゆるする。
朝一は諏訪大社、今日は上社を前宮から参詣。
諏訪大社は上社の前宮、本宮、下社の春宮、秋宮と4つの社がある。
祭祀の始まりは遥か古代のことである。
記紀神話が作られてからは諏訪大社の祭神はタケミナカタとされているがそれ以前の磐座信仰に発祥があるとされており社殿が造営されるのは遥か時代が下ってのこと。
諏訪大社といえば御柱、前宮にも立っている。
前宮は諏訪大明神が最初に居を構えたところである。
神官大祝氏がその子孫とされていて中世には武家を発祥させて武田信玄の侵攻に抵抗したことで知られる。
前宮の本殿は伊勢神宮の古材を用いて昭和7年に作られた。
社域は4つの社の中ではひときわ規模が小さいがその分、古代信仰の気配が濃厚に感じられた。
上社本宮は前宮から山沿いに少し行ったところにある。
本殿を持たず御神体は山である。
現在の社殿は織田信長の侵攻で焼失し、後に信濃を支配した徳川家康が復興を始めた。重文が六棟。
東参道から入ると「布橋」という屋根付の廊下が拝殿を横切っておりくるりと回って拝殿に到る。
板張りの床が張られていて布を敷いてあったことから布橋なのだという。