高松シンボルタワーの目の前が玉藻公園。
玉藻とは一帯が「玉藻の浦」と呼ばれていた頃に由来する。
公園は旧高松城の敷地である。
この城は戦国時代が終わり豊臣体制となった折、領主として乗り込んだ生駒親正によって新規に縄張、築城された。
豊臣政権下の築城ラッシュのひとつであり、高松の地名もこの時名付けられた。
城は海水を引き込み水城とした珍しい縄張。
黒田官兵衛や細川忠興が知恵を貸したという。
お堀で鯛にエサやりができるらしい。
天守台の石垣を積み直す工事をやっていた。
披雲閣なる建物が航海されていたので入ってみた。
かつての御殿が解体された後、旧藩主松平家が大正時代に立て直したものという。
縄張や現存する櫓など部分部分でおもしろい一方、全体像がなかなかつかみにくいのが平城の難しいところ。
丸亀城商店街の撮影、昼飯を終えてぶらぶらと港の方に歩く。
高松港にはJR高松駅、高松城などがある。
ひときわ大きなタワーが高松シンボルタワー。
2004年の開業でオフィスやイベントホールなどが入っている。
高さが151.3m、四国で一番高い高層ビルという。
高さにこだわるのは人間の煩悩といえるだろう。
経営者は真新しい話題のオフィスを欲する層が確実にあり、最新のオフィス棟ができると多分に自慢のために引っ越しする。
すると古いビルの空室率が高まってかつてのオフィス街が閑散となる。
東京のように新規のオフィス需要が旺盛にあれば新陳代謝効果があるのだが、地方都市でこれをやるとGMSによる商店街の衰退同様、地域再生の負の面が如実に出る。
私のような部外者にとって高いタワーは町の様子を空から見られる点、ありがたい。
早速上ってみれば360度の眺望、東に屋島、北に瀬戸内海と抜群の眺めである。
南側、ビル群に目をこらすと先ほど訪ねた丸亀町商店街のドームがみえている。
高いビルがなければさぞかし目立つのだろうが埋没してしまうのが残念。
日本の地方都市はどうしても近代化というかミニミニ東京をめざしてしまうのがとてももったいない。
とはいえ住民意識というのは地元育ちの人しかわからないもの。
「ミニ東京をめざせ」、これを改革しなければならない。
高山に続いて地域取材旅行に出かけた。
今回は高松と松山を回る。
高松の地域再生で有名な丸亀町商店街。
高松城の城下町だったところ。
商店街の有志が1988年から再開発に取り組んできた。
商店街の特定区画ごとに計画を策定、順次再生されつつある。
開発のシンボルがアーケードの再構築とドームの建築。
ドームはガラス張りの鉄骨組で遠くからよく見える。
ここのユニークなところは地権者が出仕する管理会社がテナントに使用権を付与する形にしたこと。
歴史ある商店街は地権者が細分化されて大がかりな開発計画の意見統一に支障があるケースが多い。
日本の大規模都市開発では大手ディベロッパーが土地をまとめて取得して更地にしてから開発をスタートする。
バブル期には「地上」として悪名高かった方式である。
丸亀町方式では地権者ひとりひとりが開発会社の構成員となることで土地を手放すことなく商店街の再生が可能になる。
まだまだ再生途上ではあるが有名な地域再生の成功例として紹介されている。
地方中核都市の地域再生は少子高齢化とライフスタイルの変化でなかなか難しい局面を迎えている。
商店街シャッター通化の原因はGMSの進出とされることが多い。
価格や品揃えで有利な大手総合スーパーがクルマで行きやすい郊外にどんと進出してしまうと住民はそちらに頼ってしまう。
GMSはエンタメや医療なども含め、ワンストップで様々なサービスが受けられることから商店街の客を根こそぎ持って行ってしまう。
この問題がやっかいなのは商店街の客である住民が商店街よりもGMSに魅力を感じてしまうこと。
地元商店を守ろうという気持ちがないといくらいいハコモノを作っても効果が薄い。
商店街を訪ねてみれば平日のお昼前後ということもあってかまだ通る人はまばら。
アーケードは商店街の規模と身の丈があったもので好ましい。
個々の商店もシャッターを下ろしたままの店は少なそうである。
私の仕事がどれだけ貢献できるかわからないが、地元を愛する心の醸成という点を念頭に置きたい。