チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「『47』という奇妙な数字/文楽忠臣蔵」

2009年12月31日 23時04分05秒 | 歴史ーランド・邪図
とざい、とーーざーーーーーぃ。

「足がつる」という現象を私は生まれてこのかた
一度も体験したことがない。そのかわり、
足が棒になったり、無駄足を踏んだりした、
ということは数知れない。といって、
全国47都道府県のすべてを訪れはしてない。それはさておき、
年末年始だというのに、甲斐性なしな私には
伴侶も子もなく、ただ借財借金と薄利な煎餅焼きが
このなで肩にのしかかってる。すべってしまう。が、
煎餅の焼きあげがすらすら進むはずもないまま、
昨日は気晴らしに日帰り旅行に出かけた。
新幹線に乗って京都駅まで行く。そして、
八条口に出る。そして、すぐさままた改札から逆行して
上りの新幹線に乗って品川に帰る。
というものである。何も観ずに。
眼前に御馳走があってもそれに手をつけれない状況を
ことさら体感し無駄足を楽しむ、という自虐プレイである。
品川の高輪口からタクスィーに乗りこんで、1日早い
年越しそばを食うために麻布十番に向かってもらった。
道順を指定しないと、普通は第一京浜を三田方面に向かって
泉岳寺交差点で左折する。そして、泉岳寺前を通る。
多分にもれなかった。

よく知られてるように、
泉岳寺は赤穂浅野の菩提寺であり、
47士の墓もぎっしりと詰まって建ってる。
山号は萬松山である。織田信長が父信秀の葬儀で
抹香をぶちまけたとされてる寺の寺名は萬松寺である。
いずれも曹洞宗である。ちなみに、
祖父の代までの我が家も、殿様の真田家も曹洞宗である。
曹洞宗といえば永平寺であるが、
東京における曹洞宗、といえば、吉祥寺と駒澤大である。その
駒澤大の前身である「曹洞宗大学林専門学本校」は、
明治15年(1882年)に「麻布区日ヶ窪町」で開校した。
"跡地"が現在の六本木ヒルズである。このあたりは、
江戸時代には毛利の支藩である長府毛利家の上屋敷だった。
岡嶋八十右衛門以下10人が果てた場所である。ちなみに、
ここで10人の最後だった間新六だけが実際に
腹をかっさばいた。そして、この新六だけが、
泉岳寺に窮屈に杭のように縦に葬られた「義士」らの中で唯一、
そこには入らず、築地本願寺に埋葬された。それはともかく、
その毛利家(つまり、本家の毛利家も)も、寛永の大火で
焼失した泉岳寺を再興した家のひとつである。また、
赤穂事件から四半世紀ほどのち、享保10年(1726年)に、
江戸城内で信濃松本7万石水野忠恒が、この
長府5万7千石毛利師就に斬りかかるという事件が起こる。が、
死者なく、吉宗以下幕閣の裁定は、水野を改易にしはしたものの
切腹はさせず、結局、一族を旗本にしてのちに大名に復帰させ、
抜刀せず鞘で応戦した毛利はお咎めなし、というものだった。

さて、
赤穂といえば、江戸時代、当初は池田輝政が播磨一国を領し、
その5男政綱が赤穂3万5千石を分知されて立藩した。が、
無嗣によって改易となるところ、
その弟輝興(播磨平福2万5千石)に1万石が加増されて
存続を許された。ところが、この輝興は突如乱心して、
妻子や侍女を斬って改易となってしまう。思えば、
赤穂藩はここから塩でなく味噌がついた。ともあれ、そこに
浅野の支藩常陸笠間から浅野長直が5万3千石で入る。そして、
長直→長友→長矩(内匠頭)となるのである。
長矩の刃傷事件のあとは、下野烏山から
永井直敬が3万3千石で入るも、5年ほどで信濃飯山へ転封。
この直敬は赤穂の前の烏山も前藩主の改易の後始末的な
転封だった。寺社奉行・奏者番という幕閣だったからである。
別エントリでも書いたとおり、旧領主の池田家と
因縁深い家でもある。また、
曽祖父直勝(永井荷風や三島由紀夫の先祖)は
常陸笠間では浅野家の前の藩主でもあった。それから、
この永井一族も問題を起こした家である。延宝8年(1680年)、
4代将軍家綱の葬儀中の増上寺という厳粛な場で、
内匠頭長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝が
ともに葬儀奉行の役であった永井信濃守尚長を
背後から脇差で刺し殺してしまったのである。ともかくも、
永井家が転出したあとに赤穂に入ったのは、
美作津山藩を断絶された森家の長直が2万石でに入り、
幕末まで続くのである。この森家もいろいろある家である。
名字の「森」の成り立ちは後述のとおり、現在の
神奈川県厚木市から愛甲郡あたりの毛利荘(もりのしょう)に
定着したときに名乗ったものである。

ときに、
戦国大名の毛利といえば、その名字の由来は、大江氏が
相模国愛甲郡毛利(もり)庄に定着したことによる。また、
同地には清和源氏河内流の森家(一族では、森蘭丸が著名である)
も毛利庄に定着した。つまり、このふたつの名字は、
「もり」という共通の地名がもとなのである。ところで、
内匠頭刃傷切腹のあとすぐに、大石良雄が藩札を交換した、
とされてる。大阪経済圏である赤穂藩が交換したのは、
もちろん、銀である。銀という金属は、
原子番号47番でAgと表される。ちなみに、
赤穂の領民は浅野家が取り潰しになるという噂で
「大喜び」したという(当時は)。が、藩札の交換が
額面の6割と聞いて、なお、
「どや、言うたとおりやろ。こないに銀がアルジャンか」
と相模弁も交えながらさらに大笑いした、
というのは半分はウソである。それはそうと、
現在、首都高速7号線錦糸町ランプの南側あたりに
江東区毛利という町名がある。これは、
水野の長府毛利に対する刃傷事件の翌年の
享保11年(1726年)に、麹町隼町の伊勢屋藤左衛門が
私財をつぎこんで開拓した土地、というのが地名の由来らしい。
伊勢屋藤左衛門の「名字」は「毛利」である。私はこの人物が、
「赤穂義士最後の脱盟者」とされてる毛利小平太元義、
だったのではないか、と当て推量してる。吉良邸の
情報探索に一役かった人物である。その諱の
おそらく「通字」であろう「元」から、その出自は
安芸を支配してた毛利の一族だったのだろう。
赤穂浅野の本家の浅野家が領してる広島は、
関ヶ原以前は毛利家の本拠地だったのである。

ところで、
もう半月も前のことであるが、12月14日、私は
麹町隼町の国立劇場にいた。この半年、また
一期一会を大切にする生活に戻った私は、
合コンその他、次からつぎへの出会い&別れに
精力的に向き合ってる。そんな中に、
人形浄瑠璃に興味があるというお姉さんに出くわしたので、
亡き父へのうしろめたさから遠ざかってた人形浄瑠璃であるが、
ちょうど開催されてた小劇場の
「第41回 国立劇場文楽鑑賞教室」に誘ってみたら、
乗り気だったので行くことにしたのである。
初心者のお姉さんと浅学児な私の、
ビギナーズ観賞である。が、
平日のまっぴるまだというのに、満席だった。
高校生や外人もいた。まず、
「文楽の魅力」という解説があった。そして、出し物は、
「仮名手本忠臣蔵」である。その中の
「下馬先進物の段」「殿中刃傷の段」
「塩谷判官切腹の段」「城明渡しの段」
だった。ちなみに、「殿中刃傷の段」の中で
高師直(高慢ちきな・モロ・ナオという意味ではない)が、
塩谷判官の奥方顔世御前から添削を頼まれたという
「さなきだに、重きが上の、小夜衣。
我がつまならぬ、つまな重ねそ」
(拙大意)そうでなくても、重い(思い、に掛けてる)
    着物の上に掛ける寝着です。
    自分の褄(妻、に掛けてる)でない褄を
    重ね着しないでください。
にイチャモンをつけるとこがネチッコクて面白い。これは
新古今集の歌そのものなので意味がいまいち
シャクゼンとしないかもしれないが、要は、
パワハラな横恋慕してんじゃねぇよ、
っていうキツい拒絶の返答なのである。そこをまた
芝居上実直な塩谷判官は、
♪What a day, What day to take to,
 What a day, What a day to make it through,
 What a day, What a day to take to a wild child♪
(拙大意)どないな日なんや、まったく。
    やり過ごすんが難儀な一日や。
    真っ正直なガキにはよう過ごせん日やで、ホンマ。    
とか、
「顔世をお貸ししてもええけど、チョットだけよ」
とか、
「♪エンヤ、コーラヤッ。ドッコイジャンジャン、コーラヤッ。ヨロシクッ!♪
みてーな他にテケトーな歌がおまへんでん、そげぇ歌を
選ぶよーになったんやろ思います」
など、うまいことかわせず、刃傷に及んでしまうのである。

ちなみに、
このモデルとなった塩冶判官高貞は、
出雲国の守護である。人形浄瑠璃の
「仮名手本忠臣蔵」の作者のひとりである
竹田出雲という通称と共通してるのである。さて、
その「仮名手本忠臣蔵」であるが、
寛延元年(1748年)に大阪の竹本座で初演された。
浅野内匠頭長矩の死からちょうど
47年後のことだった。それはおそらく、
"47 years anniversary"を意図したものだろう。また、
「いろは47文字」に合わせて「仮名手本」と、江戸時代も
語呂合わせ・言葉遊びの文化が蔓延してたのである。
まぁ、一期一会でなくとも、数回程度なら構わないと、
また次回、国立劇場2月文楽公演の
「曾根崎心中」を観にいく約束をした。ときに、
第47代天皇は淳仁天皇であるが、
藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こしたときに
天皇にまつりあげようとしたのは、
塩焼王だった。
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