フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2011年2月③

2011年02月01日 | しゃちょ日記

 ───────────────────────────────
 2011年2月16日(水)/その598◇俺のことかよ

 スーツ/しゃちょ.jpg

 来る日も来る日も、日記を書く。
 出来事よりも、何を想ったかを書く。
 どんな小さなことでもいいから、できれば何かおもろい発見をしたい。
 それが現在の私の生業で、編集・執筆などは単なる集金旅行だ。
 日々の想いの集積が、そのまんま編集・執筆に反映されるわけだから、
 具体的な企画に着手する時点で、おそらく仕事の7割強は終わってる。

 そんな日々、とりわけ人類の最高兵器"笑い"の発見は重要である。
 人種・宗教を超越する人類和平のエベレストたる"笑い"。
 「知識や見識というのは、笑いの発見のために必要な道具にすぎない」
 と云うと「お気は確かですか?」と云われるので、あまり云わない。

 でもさあ、人の説教によって立ち直った人間なんか、
 私の周りにゃ(私を含め)一人もおらんけど、
 逆に、笑いによって勝手に更生した人間は、
 私の周囲にゃ(私を含め)ウジャウジャいるからねえ。
 まあ、そういう偏向のあるムラ社会で私は生きている。

 それとね、フラメンコを観たり聴いたり考えたりすることは、
 人生を生きたり考えたりするのとまるで一緒だったりもするから、
 アフィシオナード(フラメンコ愛好家)というスタンスには、
 アマ・プロ・体重問わずで、まったくもって無駄がないのである。

 フラメンコ.jpg           
 
 で、日記を書き始めたのは50をすぎてから。
 最初のころは三行書くのに半日かかった。
 でも、毎日書こうと思った。
 書くことで自分の考えを整理できることに、
 つまり、好ましい方向に、あまり迷わず行動できることに、
 ある日突然気づいたからだ。

 こんなこと、普通は十代で気づくと思うのだが、
 つまらん社長業などで三十年ばかり道草を喰ってしまった。
 さらに若かりし私は、日記なんかより、
 仕事やら音楽やら呑み友やら女性が好きだった。
 だからタイムマシンでその昔に戻っても、
 きっとまた同じ失敗をしでかすことだろう。
 まずは生の瞬間ありき。
 そして、その瞬間の記憶の集積ありき。
 そういうヘボい思い込みは、終生変わりようがなさそうだから。

 さて、毎日ひとつのテーマを書くだけで、年間で365のテーマについて、
 自分の考えをスッキリ整理できるメリットがある。
 それを三年続けると、自分の行動原理を1000ばかり暫定できる。
 決定ではない。あくまで暫定である。
 自分の実力を考慮すれば、その多くが正解でないことは明白だから。

 だが、ブレブレで生きるのもやたら疲れるし、第一中途半端でつまらない。
 だから、この数年で発見したその千数百の行動原理に基づき、
 若い頃は得意だった「決め打ち」に走る。
 ある決め打ちが明らかに間違いであることに気づいたら、
 恥も外聞もなく、迷わずそこで修正すればいいのだ。
 それが世の中にボコボコにされながら、
 闘いながら闘い方を覚えるということだから。

 いろんなテーマについての私見を1000ぐらい書けば(=考えれば)、
 さすがに自分という人間が視えてくるものだ。
 例えば、私のケースではこんな感じだった。

(1)現状の自分がどんなタイプの人間であるかってことが、ほぼ判明する。
  (実際にはほとんど火星人に近いという衝撃の事実も判明する)
(2)そういう自分に嫌気のさしてる自分が、じゃあオレは
   一体どんな人間(または火星人)になりたいのか?ってことが、ほぼ判明する。
(3)じゃあ、生きてるうちに(1)から(2)へと、少しずつでも
   変わってゆこーじゃないかとマジで願う自分が視えてくる。

 まあ、こーゆーええ加減な分析から、
 意外と簡単に、私という火星人に適した結論が視えてくる。

 来る日も来る日も、まずはその瞬間の生の感動をもぎとることに集中したい。
 仕事もプライベートもそれはいっしょ。ここだけは変わらない。
 次に、私の品性と実力の低次元性もこの俺にはバレバレなだけに、
 高尚すぎる目標達成はキッパリあきらめる。
 いまさら立派な社会人をめざすのも手遅れすぎるしな。
 ただし頭の隅っこに、ささやかながらも好ましい目標をポツリ置きながら、
 日々ほんのちょっとだけベターに生きようと、それだけは死ぬまで続ける。
 これならば、いかなる夢の途中でおっ死んでも問題ないしな。

 と、まあ、ヴィジョンがゆるくなった分、
 こういうやり方が有力戦略として浮上してくるわけだ。
 だから結局のところ、そんなには私は変わらない。
 バカは死ななきゃ直らないとは、てっきり人ごとかと思っていたが、
 つい最近になって、おゐおゐ、そりゃ俺のことかと気がついた。

 とほほ3.jpg


 ───────────────────────────────
 2011年2月17日(木)/その599◇フラメンコ超緩色系

 久々にgooに書いてるブログをチェックすると、
 アクセスが1000を越えてる日があった。
 調べてみると『ゾロ ザ・ミュージカル』を載っけた日だ。

 gooの「フラメンコ超緩色系」には、
 日刊パセオ「しゃちょ日記」を月に何度かまとめて転載してるだけなのだが、
 最初に着手したブログなので、それなりに愛着はある。

 アクセスの源をたどってゆくと、私のゾロ感想に対する
 サカメンコ(坂本昌行)ファンの感想がゾロゾロと書かれている。
 その着眼がけっこう面白くて、とても参考になったな。

 mixi、ツイッター、フェイスブックなどの流行で、
 ブログの時代は終わったのかと思っていたが、濃厚な層はいまだ健在のようだ。
 これからは棲み分けの時代になってゆくのかな。
 ぼちぼち国際化にも対応したいところなんだが、私なんかは
 mixiの日本ならではの程良い双方向性が、今のところは一番気に入っている。
 そこでのウェブ仲間とのキャッチボールが、人生上・仕事上における
 さまざまな霊感をポーンと引っぱり出してくれたりするから。

 ところで、「フラメンコ超緩色系」というタイトル。
 「緩色(かんしょく=ゆるい色)」という意味合いで付けたのだが、
 よく「暖色(だんしょく=あたたかい色)」に誤植表記されることが多い。
 私としてはそーゆー中途半端な誤植よりも、もっとダイナミックな作品を望みたい。
 つなみに、
 これまでの最高傑作は
 「フラメンコ超男色系」という大変男らしい作品である。

 ───────────────────────────────
 2011年2月18日(金)/その600◇俺がルールブックだ!

 「俺がルールブックだ!

 反吐が出そうだ。
 何て思い上がりの激しい下品な言葉だろう。
 インタビュアーとして活動することの多い私には、
 ちょっと考えられない台詞である。

 独裁体制にも共産体制にも宗教にも、私は興味を感じない人だ
 賢帝による立憲君主制には少しだけ魅力を感じるが、現在ではそれも幻想にすぎないし、
 やはり、生き腐りを嫌う、より良い民主主義を最も好ましく感じるタイプのようだ。


 さて、パセオ編集長に就任して、気がつけば15号発行している。
 編集長就任時に自らコストダウン(月間150万/年間1,800万円)に着手したが、
 部数を落とすことなく、それもどうやら達成しつつある。
 手間ヒマ惜しまず自ら先頭を切れば、解決できるレベルのハードルだったのだ。

 そして、新生パセオの内容に対しては、もちろん賛否両論ある。
 直接私の耳に入ってくるのは、だいたい賛成9:反対1の割合だから、
 全体としての実際のところは賛成4:反対6あたりと看做すのが妥当だろう。

 当初の目標目安はとりあえず賛否が五分五分の線だから、
 あと10%程度ぐらいは、早急に何とかしたいところだ。
 で、いま嬉々としていろんな仕込みをやってるところ。

 新生パセオに対する反対意見には、傾聴に値する有力な意見も多々あり、
 無論それらについては貪欲に採り入れてる最中だ。
 フラメンコ専門誌に必要なのは、自動車の安定ではなく自転車の安定なのである。
 信頼出来る仲間とともに、これからもそれはビシバシ変貌を遂げてゆくことだろう。

 その一方では、「私の好きなアーティストや執筆者だけを採り上げろ」的な
 モンスターな反対意見も相変わらずあるわけで、まあ、大方は匿名なのだが、
 中には直接真顔で云ってこられる方もおられる。

 話しても不毛なことはわかっちゃいるけど、
 大切な読者の一部ではあるので、懇切丁寧な説明を省略することはできない。
 私の根っ子は短気な江戸っ子だが、同時に心優しいインタビュアーでもあるわけで、
 こういうモンスターへの対応は決して嫌いではないのだ。
 そして最後に、現在のパセオフラメンコの編集方針について、
 謙虚にひと言こう述べる。

 「俺がルールブックだ!

 

                
               おーまいがっど.jpg


 ───────────────────────────────
 2011年2月19日(土)/その601◇今日からマリパヘ

 いよいよマリア・パヘス公演!

 この土日の両方とも観る。
 今回のテーマはひとつだけ。

 あまたフラメンコ舞踊手の中で、
 このマリア・パヘスを、
 なぜ私は一番好きなんだろう?

 そういう私に対し、
 この俺は、その理由を発見したいのだ。

 1676003131_85.jpg


 ───────────────────────────────
 2011年2月20日(日)/その602◇シャープな決断

 少年時代に、早指し将棋をよく指した。
 お互いに1手10秒以内に指さなければ負け。
 深く読む時間はないから直感に頼るしかない。
 経験値とセンスと決断力の勝負で、負ければ大枚が吹っ飛ぶ。

 以来、良くも悪くも私の決断が早いのは、
 その頃の刷り込みによる。
 だから物事の選択に迷ったことはあまりなくて、
 重要な岐路においても、ほとんど即決~アクションしてきた。

 幸薄い私だが、選択肢に迷い悩んだ時間がほとんど皆無だったことは、
 実際にアクションする時間の効率活用につながったから、
 これは不幸中の幸いだった。
 ただし、そういう私のシャープな決断とアクションが
 ほとんど裏目に出たことは、幸い中の不幸だった。

 「下手な考え休むに似たり」というのは、すでにメジャーなことわざだが、
 その双璧とも云うべきこの「シャープな決断ほとんど裏目」という
 得難い私の教訓にも、せひ清き一票をお願いしたいところだ。
 なんだったら、「シャープな決断 痛いアクション」をおまけにつけてもいい。
            

 画像 008.jpg

 ─────────────────────────────── 
 2011年2月21日(月)/その603◇人生の真相

 この地球に唯一の月刊フラメンコ専門誌、パセオフラメンコ。
 早いもので、この8月に創刊28周年目を迎える。
 この夏私のパセオ歴は、ちょうど私の人生の半分に達する。

 さて、本日発売のその3月号における私の執筆担当ページは皆無だった。
 「どーりで出来がいいわけだあ!」
 行く先々で聞かされる、こんな的を得た評判にメゲてる私ではない。
 その次の4月号のおける私の執筆担当ページは、
 なんと20ページ近くもあるのだ。

 「幸せな日々はそうは続かない、哀しみは駆け足でやってくる」

 そう、3月号と4月号の足掛け二号にわたって、
 みんな知ってる人生の実相をサブリミナルに表現しているのだ。
 だが、しんぱいゴム用! である。
 続く5月号において、私の執筆量は再びガクンと落ちるのだ。

 「哀しみだって、そんなに永くは続かない」

 そう、みんな知ってる人生の真相は、
 パセオ3~5月号の三号にわたって、しっかり表現されているのである。

 とほほ1.jpg

 さておき。
 本日更新のフラメンコ公演忘備録では、
 早くも「マリア・パヘス来日公演」のガチンコ感想をアップ!
 もの凄いフラメンコライブに出喰わしたとき、
 この新人ライターはもの凄い化学反応を表出するようだ。

 ───────────────────────────────
 2011年2月22日(火)/その604◇尊敬できません

 「ネタぁあがってんだ、えーかげん吐きやがれっ!」

 インタビュー記事には、こんな鬼刑事的側面と、
 気分よくペラペラしゃべりたくさせる太鼓持ち的側面の、
 その両面があった方が結果は出しやすい。
 
 だが、それらはあくまで表面的な戦術であり、
 もっとも重要なのは何と、インタビュー対象者のアルテ、
 および人間性に対するこちら側の「愛」の総量だったりする。

 そういう愛の深さは、「いい記事書きたい」というインタビュアーの
 執念&実務量と、見事に比例するからである。
 だから、リスペクト出来る対象へのインタビューは、
 どんなに難航してもそこそこ成功することは、やる前からわかっている。

 問題はリスペクトするには至っていない対象へのインタビューだ。
 そういう意味で、私としては、
 この俺に対するインタビューなんかは、絶対に不可能なのである。
                   
 090815わん2.jpg

 ───────────────────────────────


最新の画像もっと見る

コメントを投稿