フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2011年8月⑥

2011年08月01日 | しゃちょ日記

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 2011年8月28日(日)/その796◇新人公演~拡大するポテンシャル

 日本フラメンコ協 会第20回新人公演/フラメンコ・ルネサンス21
 [2011年8月19日~21日/東京・なかのZERO大ホール] 

 待ちに待った夏の新人公演。
 私の主要任務は四つ。
 ①パセオのバックナンバー配布による東北義援金集め、
 ②この忘備録、
 ③来年3月号「しゃちょ対談」にご登場いただく旬の新人発掘、
 ④新鮮なフラメンコ84組を思う存分楽しみながら、
  それら全ての凛々しい勇姿を両の眼にしかと焼き付けること。

 最終日終演後の会場ロビーで、12月号の新人公演大特集(34頁)を担当する
 編集部小倉とともに1冊100円×400冊のパセオ・バックナンバーを完売し、
 協会~赤十字経由で東北義援に回す売上全額をその場で協会事務局に委ねた。
 募金に協力くださった皆さん、本当にありがとう!

 さて、全体に豊作だったギター部門。
 鬼テク大山勇実の颯爽とする推進力に酔い、廣川叔哉にはじんわり来た。

 カンテ部門はみな強い心意気で唄ったが、
 半数以上の出演者の音程はまるで私のようでそこは気になったものの、
 許有廷と齊藤綾子は楽しめた。

 群舞部門。それぞれが鉄火な力強さを発揮しながらひとつに連携する、
 これぞフラメンコ群舞!みたいなCoral flamenco。
 そして、粋と洗練に充ち満ちたスタジオ・トルニージャ。

 バイレソロ部門。
 初日は村井宝、津田可奈、小島智子、
 二日目は河野睦、伊部康子、山崎愛、
 三日目は岡安真由美、小杉愛、遠藤美穂、戸塚真愛、後藤歩、末松美和。
 この12名のバイレが極めて好ましい記憶として残るが、
 とりわけタイプはまるで異なる小杉愛と遠藤美穂の二人は、
 私の中では全体を通し強烈に突出する印象だった。

 まあ、こうした感想には私の好みが濃厚に反映されていて、
 ロビーで言葉を交す人々の感想はそれぞれに様々だ。
 協会を設立した20年前に比べ全体のレベル・アップは著しくて、隔世の感がある。
 新人公演開催のために駆けずり回ったあの頃の私も30代半ばで
 キアヌ・リーブスそっくりだったが、現在は火星人そっくりなわけで、
 こちらにも隔世の感がある。
                     
 久々に奨励賞選考会をつぶさに拝見したが、
 現行システムの公平性と優秀性を改めて確認できた。
 出演者個々に感応しながら各々を引き立てるあの見事すぎる照明、
 伴奏者を選択できる自由など、
 この新人公演にはコンクール性は希薄であり、
 あくまで公演性を重視し、それが独自の人気、ステータスを
 築き上げてきた理由のひとつでもあるだろう。

 かつてコンクール・マニアだった私は
 様々なジャンルのコンクールに親しんできたが、
 それら選考状況について云えば、
 この新人公演ほどに信頼できる公平性は極めて稀だった。

 40年のアフィシオナード歴と、若き日のコンサート・プロモーターとしての
 経験値から、私は自分の感想にそれなりの責任を持てるつもりだが、
 自分の信頼する選考委員各々との意見ギャップに愕然とすることは多い。
 つまり彼らからすると、私との意見ギャップに大いに愕然としているはずだ。

 さて、今回もやってみたのだが、以下のような大雑把な括りだけでも、
 どの立場を採るかによって、選考結果はまるで違ってくるところが興味深い。

 (1)伝統フラメンコの観点
 (2)現代フラメンコの観点
 (3)音楽・舞踊の観点
 (4)舞台芸術の観点
 (5)エンタテインメントの観点

 例えば(1)と(5)の両方からの評価を実際にやってみると、
 当然ながら賞の人選はガラリと入れ替わる。
 その上(1)は(3)や(4)とも相性が悪いと来たもんだ。
 私はどこの肩も持ちたいタイプなので、(1)~(5)をタテ軸に、
 「技術」「センス」「心意気」などのヨコ軸を絡めて観る傾向にある。
 つまり、何だかんだ云っても自分の好みでしか観ていない。

 さて、来年3月号「しゃちょ対談」のゲストは、
 私の中で「一生フラメンコの世界で生きてほしい人ベストワン」の方であり、
 来週あたりにインタビューを申し込む段取り。
 この発掘企画は毎年恒例にしようと決めたのだが、
 それによって出演者のモチベーションが
 一気に下降しないことを切に祈るものである。

 それにしてもこの三日間の夢の祭典。
 出演陣の志の高さと舞台度胸の潔さ、
 そしてコツコツ貯めたであろう日頃の努力の結晶には、
 ただただ、ただただ感嘆するばかりだ。
 緊張の極致とも云えるあの衆目注視の舞台で、
 最後まできっちりフラメンコを決める凛々しい晴れ姿は、
 皆それぞれに胸を突き上げるものがある。


 さて、では、おしまいにまとまらない忘備録のまとめを。

 商業主義の対極にフラメンコの究極はある。
 これはおそらく間違いない。
 だが、フラメンコの究極を充たしながらも、
 商業主義の要求を充たすフラメンコもある。

 パコ・デ・ルシアがいなければこのパセオも生まれてないし、
 アントニオ・ガデスやマリア・パヘスがいなければ
 遠の昔にパセオは廃刊している。

 アルテと商業主義という両軸における葛藤というのは、
 決して敵対するものではなく、
 互いに互いを高め合うエネルギーそのものだ。
 そうしたアウフヘーベンの現在進行形そのものが、
 フラメンコの博物館入りを阻止し、
 その国際的隆盛を支えるマグマとなっているのだ。

 つまり、観客席や選考委員席の評価が各方面に多彩であればあるほど、
 フラメンコのポテンシャルは健全に拡大してゆく。

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 2011年8月29日(月)/その797◇シンスケさん

 島田紳助さんは、大好きなタレントだ。
 あの鋭いツッコミとスケール大きいボケの精度と霊感は
 見事というより他はない。

 傷つきやすい性格を逆手に取って、
 その心の傷に自ら塩コショウをすり込むようにしながら、
 自らを逞しく成長させてゆく心と技法。
 頼りない私に開き直った活力を与えてくれる、
 私にとって日本屈指のアーティストであり、
 その引退があまりにも残念でならない。

 だからと云って、彼を全面肯定するつもりは毛頭ないし、また毛髪もない。
 もっとも全面肯定できる人間なんてひとりもいない。
 人は誰でも善いことをしながら悪いことをする。

 だからと云って、あのヴィジョンなきマスコミ報道の俗悪レベルには、
 これがほんとに大人のやることかと思わず絶句する。
 国家の一大事のこの時期、やるべきことの優先順位もまるで間違えてる。
 通常マスコミは、われら民衆をまんま映す鏡であるわけだが、
 本当に現在のわれら民衆レベルは、現在のマスコミほど愚劣だろうか。
 民衆を煽りに煽って太平洋戦争に突入させた、
 あの頃のマスコミの悪行が否応無く思い出される。

 マスコミの現場も中枢も、目先の視聴率ではなく、
 人々の暮らしに的確で綺麗ごとではないヴィジョン・方法論を
 真摯に供給するスタンスを共有しない限りは早晩、
 新聞テレビなどは大淘汰の時代に向かうのではないか?

 さて、仮に残される問題があるとするなら、
 シンスケさんはいつものように堂々クリアした上で、
 やがて自らの心の望むままに展開してほしいと願う。
 隠居、芸能界復帰、新規事業、政界進出など選択肢は様々だと想像できるが、
 もっとも心に合致する進路を採ってほしいと願う。
 卑賤なマスコミが捏造する世論などからは無縁のところで、
 「島田紳助」を生き続けてほしいと、今度はこちら側から応援したい。


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 2011年8月30日(火)/その798◇足りないから足せるはず

 生来私はシャイな天然ボケだが、
 商売柄ツッコミもバンバン飛ばす。

 対象が何であれ、
 思わず私の口から出てくる他へのツッコミが、
 私を含めた全体にとって、どうか有益でありますように。

 どんよりネガティブな内なる愚痴を粉砕しながら、
 前に進む瞬発力のクオリティを鍛えてくれるのがフラメンコだ。
 そこに気づけない発言は痛い、痛すぎる。
 そこに気づいているはずの私の発言も痛い、痛すぎる。

 うーん。
 潜在意識との会話が足りない。
 他を想う気持ちが足りない。
 審美眼が足りない。
 俯瞰力が足りない。
 表現力が足りない。
 つまり、ユーモアが足りない。
 お金も足りない。
 ついでに髪の毛も足りない。


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 2011年8月31日(水)/その799◇フアン・タレーガ

 五十代半ばともなると、
 大切にすべき何かと、そうでない何かとを、
 わりかし短時間で識別できるようになってくる。

 若い頃は、まだまだ先は長いという安心感から、
 優柔不断に構えられる余裕がたっぷりあるのだが
 人生の持ち時間が少なくなってくると、
 悠長に構えられる余裕がなくなってくるから、
 その分だけパッと決断できるという仕組みだ。

 余計なモノは買わなくなるし、
 後に残される者の迷惑を考え、不要なモノはバンバン捨てる。
 その代わり、親しい人とのふれあいには金も時間も惜しまなくなる。

 「ああ、楽しかったなあ」

 あの世に旅立つ寸前、ほんの一瞬でもいいから、
 そんな想いが脳裏を走れば良しとする。
 さすがに金や物は持って行けないからな。
 となれば、その優先順位のトップは、
 やはり「他とのふれあいの記憶」ということになるのだろう。
 いかに孤独を愛そうと、人間はやはり社会的な動物なのである。

 そういう記憶の蓄積を第一に考えるようになると、
 「何をつかもうか?」というテーマが極めて単純明快なので、
 それまでバラバラだった価値観も統一されて、
 仕事のやり方も、人との付き合い方も変わってくる。
 いわゆる世間体というものからは徐々に開放され、
 「いい汗かこう」ってことの深い意味合いも少しずつわかってくる。

 ガチャガチャした私にそうした変化が生じたのは、
 若い頃はまるで受け付けなかったカンテ・フラメンコの巨匠、
 フアン・タレーガに親しみを覚え始めた頃だったと思う。


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