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2015年4月30日(木)その2110◆対話の時代
「私の感想は、Gilのパルティータ3番Eメジャーは最高、
相性抜群で新しいバッハを提示していることは間違いないと感じています。
最近はバロック音楽、バロック時代の楽器の特性から分析される当時のバッハ、
真のバッハ的演奏と、一方でバイオリンとバッハの最高の
交わる地点とでもいいましょうか。
最高のバイオリンによるバッハの両極端なバッハの魅力を中心に
自分の聞いてみたいバッハの音をイメージしたり探っています。
かなり、マイノリティーな追求ですが。
バイオリン側ではやはりシェリングのバッハは一つの究極という印象があります。
藤沢周平最高ですよね!映画も含めて大好きです」
二日連続でギル・シャハムの新譜(バッハ無伴奏ヴァイオリン)のことを書いたら、
フラメンコシーンでも活躍されるご存知ヴァイオリニスト森川拓哉さんから、
目からウロコのコメントをもらった。
こういうことがあるから、毎日せっせと日記を書く気になるのだろう。
二日酔いを熱めの朝風呂で覚まし、以下のように返信。
「強烈なシェリング原体験によって、その後のバッハ古楽(ヴァイオリン)演奏に
違和感を覚え続けたのかもしれない。
森川さんのご指摘によってそのことに気づきました。
来日したクイケンの作曲当時の古楽器による古楽演奏によってその心を知り、
『両極端なバッハの魅力』が共生できることを知ったのは
まさにあの演奏だったことも。
改めてパルティータ三番を聴き込んでみて、
『相性抜群で新しいバッハを提示していることは間違いない』という
ご指摘の明晰さにも気づきました。
なるほど、古楽奏法とヴァイオリンの特性が、
Gilの特性によって見事なまでに統合されている。
Gilのバッハ無伴奏をより深く味わう大いなるヒントをいただきました、
本当にありがとう!
ところで。藤沢周平『三屋清左衛門残日録』(←ナウ過ぎるタイトル)の
ラストシーンには、なぜかシェリング〝シャコンヌ〟の再現部が鳴り響きます」
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2015年4月29日(水)その2109◆いまだまとまらず
「このヴァイオリン、いったい何者なんだっ!?」
聴き始めてからしばらくして、作曲当時の演奏奏法に現代的洗練を加える
ヴィクトリア・ムローヴァ(ロシア/1959年~)を連想する。
強い精神力でハイテンションを貫き通すヨゼフ・シゲティ(ハンガリー/
1892~1973年)の気迫が、主に重音の瞬間によみがえる。
だが、隠しても隠してもイツァーク・パールマン(イスラエル/1945年~)の
如き天来の美音がフレーズの節々に顕れてくる。
にも関わらず全体をインテンポで貫く端正な格調高さは、ヤッシャ・ハイフェッツ
(ロシア~アメリカ/1901~1987年)の面影を宿している。
もしもこの無伴奏ヴァイオリンの演奏者を知らずにCDを聴いたなら、
正解に至るまでに現役超精鋭十名以上のアーティスト名を挙げることになったろう。
ギル・シャハム「バッハ/無伴奏ヴァイオリン全六曲」2014年録音。
二時間弱の通し演奏を三日連続で聴いたが、いまだ感想をまとめずにいる。
何せ超人シャハム三十年におよぶバッハ無伴奏ヴァイオリン研鑽の結論である。
敢えてそうしたくなる気分に導く、
あまりにもあまりにも意外な剛速球アプローチ。(つづく)
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2015年4月28日(火)その2108◆買い支え
金曜マリパヘ公演で渋谷に出掛けたついでに、久々にタワーレコードへ。
ここ二十年ばかり毎月一度は通って、
世界中でリリースされるバッハ新譜の輸入CDや落語のCDを買い漁ったものだが、
こたびはほぼ一年ぶり。
6階にあったクラシック専用フロアは7階に引っ越ししていた。
しかも「7階=クラシック&落語」となっている。
まるでおれさま専用であり、あっと驚くタメゴロ~♬である。
金曜宵で他のフロアはそこそこ盛況なのだが、
この広いクラシック&落語フロアにはお客は五人ばかりである。
こりゃいかん!と、カルメン終演後の呑み代だけ残し、
バカスカ大人買いに爆走する。
久々のハーレム状態の中での最大の収穫は2014年録音、
ギル・シャハムのバッハ無伴奏ヴァイオリン全曲。
ここ十年ほどコンサートで盛んに採り上げていたのは知っていたが、
とうとう彼はヴァイオリニストの至高の夢を実現したのだった!(つづく)
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2015年4月27日(月)その2107◆バランス特訓
五十を目前にウェブ日記を始めて十年が経つ。
いろんな動機があったが、その最たる理由は、暴走を特性とし
何かと整合性を欠く分裂的性格の一本化だった。
つまり私の中の〝俺〟とか〝僕〟とか〝拙者〟とか、
最も手ごわい〝潜在意識〟などの意見を統合して、
この〝私〟が一本に取りまとめようとする人生初の試みである。
「おいっ、その結論、ちょいと待った!」
いかにももっともらしい常識的結論に達しようとすると、
そのウソっぽい違和感を俊敏に察知し、ここぞとばかり潜在意識が暴れ出す。
彼の感覚はおおむね問題の本質を突き、かつドスケベである。
大メディアの社説のような不明瞭な醜悪さもないし、
2ちゃんねるのような卑劣な矮小さもない。
そのエグいまでに明るい本音と交す対話が実にスリリングに楽しい。
そんなふうを日々繰り返す十年間のゆる~い特訓によって、
私の中の多重人格たちの連携はだんだんと活発かつスムーズになってきて、
あらゆる問題に結論を出そうとする作業は飛躍的に短縮できるようにもなった。
多くは3秒程度で、長くても10分程度か。
そこに年齢上昇による柔らかなボケが塩梅よく加味され、
私の中のチームワークはほとんど最善の状態を迎えているようだ。
現在そのリーダーシップをとるのは期待の新人(=ボケ爺さん)であるが、
そうした高齢化問題さえ除けば、私という人にふさわしいバランス感覚はおおむね良好と判断できる。
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2015年4月26日(日)その2106◆バガテル
パセオに行くと、薄くて大きな荷物が私宛に届いている。
開けてみると、ポスターパネルが何枚か入っている。
分かり辛いデザインだが、どうやら演劇のポスターらしい。
「原作/小山雄二」とある。
無論そんなもんに心当たりはない。
よく見ると、いかにも私が書いた風の不埒で短い駄文が載っている。
なるほど、それをテーマに演劇をやるらしい。
主催元は聞いたこともない大学のやたら長い名前の研究会。
手紙も招待状も入ってない。
だが、何となく気になった私はそこに出掛けることにする。
次の瞬間、そこに到着できるのは夢の便利なところだ。
石作りのどでかい校門。
受付も守衛室もなく、ただ幅の広い道が前方にのびている。
ズンズンと私は歩く。
どこまで行っても校舎らしきものは見当たらない。
代わりにどことなく寂しげな緑が広がっている。
だが、この光景には見覚えがある。
これはイギリスのヒースではないか?
強風に荒れ狂う大海原が視界を覆い尽くす。
風の隙間からウィリアム・ウォルトンのバガテルが聞こえてくる。
のこのこやって来た私をあざ笑うかのように草木が踊り狂う。
そこで目を覚ます。
なにやら自意識過剰な夢だが、そんなわきゃねーだろと、
ちゃんと自分の実力をわきまえているところに若干の救いがある。
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2015年4月26日(日)その2105◆栄光の執筆権
さあ、マリパへ〝カルメン〟忘備録でも書くかと日曜午後出社。
その前にFBで金・土にカルメン観た賢人たちの感想チェック。
するとこんなのに遭遇した。
シンプルな視点が素晴らしい。
迷わず栄光の執筆権を譲渡。
人を見掛けで判断してはいけない。
迷わずうれしい敗北感に完敗的乾杯!( ̄▽ ̄)フォー!
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2015年4月25日(土)その2104◆黒の舟唄
これまでのほとんどの作品を観ている男の私からすると、初のちょっとだけ「?」。
だが多くの女性は「!!!!!!!!!!!!」の120点評価である。
今日は腰を据えて、そのことを考える日。
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2015年4月24日(金)その2103◆しゃちょ対談
木金にかけて、またひとつおもろ過ぎる展開が生まれた。
発端は、パセオ小倉編集長のこんなFB記事。
【パセオフラメンコ2015年5月号】
美しい立ち姿から上達のヒントを得る企画「ラ・フォルマ」。
今月は小島慶子さん。踊りを見ていて透明な気分になることは、なかなかありません。
「自分が、自分が」という感情から離れると、
そういう余韻を与えてくれるのかもしれないです。
「うーむ、なるほど、、、たしかにそのとーり」と小倉の分析にいたく共鳴し、
大喜びでこれをシェアし、さらに私はコメントを書き込むのだが、
そこに話題の透明バイラオーラ、
パロマ小島慶子(17歳)本人が喰いついてくれた。
おれ「すでにパロマがつかんでいる何か?
おそらく彼女はそれを言葉に出来ないのではではないか?
それをわかり易く言語化するのがパセオの夢」
おれ「〝自分が、自分が〟という傾向は、日本のフラメンコ練習生の約八割。
残り二割の透明派、その美しい笑顔を浮かべながらパセオを創りたい」
パロマ「小山さん大正解!!!!出来ない。
もどかしい思いをいつもしています。
言葉、しかも一言で言えるだろうその言葉がうまく言えないのです。
感覚ではわかりきっているのに。翻訳機ほしい。
私にも分かりやすく言語化してほしいです」
おれ「17歳とは思えぬ透明度。
よしっ、来年のパセオしゃちょ対談でそれを実現しようじゃないか。
パロマはパロマでその準備頼む!」
パロマ「 (*≧∀≦*) 透明になりすぎて消えないよう気を付けなくちゃ。
その準備ですね!( ̄▽ ̄)ゞ あ、でもなにすれば...ε=ε=┏(・_・)┛」
おれ「よし決めた、対談まであと半年としよう。
パロマは例えば、その感覚のちょっとした断片でもいいから、
短くてもいいから、その直観をできるだけ正確にFBに書き込む。
週イチでも月イチでもいいからね。
こっちはその切り口をヒントに斬り込む」
拓人「年々若返る不思議。でも期待。2割の透明派、
そこを見いだしたときのワクワク感は、見る方の醍醐味」
パロマ「ほおおおお。ど、努力してみます。( ̄▽ ̄;) 正確じゃなきゃだめ?
...な気がする...でもいい?」
おれ「いつも通り天然正直ならそれでいいよ!」
パロマ「はいっ!( ̄▽ ̄)ゞ」
おれ「よしっ、本日より16歳としておくっ!」
パロマ「きゃははははどんどん若くなるっ!♪♪♪」
まあ、昨晩こんなやりとりがあり、朝起きると
パロマからのその最初の発信がFB上にアップされていた。
そう、私が待ち受けるのは、コテコテ本音のこういうヒントだっ!
https://www.facebook.com/keiko.kojima.77/posts/817722684986935?notif_t=close_friend_activity
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2015年4月23日(木)その2103◆別れのブルース
春の夜、独りしみじみ聴く『別れのブルース』。
淡谷のり子さんの十八番をカヴァーする徳永英明さんの名唱。
〝胸を衝く哀切〟とは、まさしくこの感情だ。
二度と逢えない心と心
踊るブルースの切なさ
ディープな艶歌には、辛めの安ウィスキーが似合う。
5対5の水割りから、次第にロックに近づくカティサーク。
過ぎ去りし情景が、セピア色にオーバーラップする。
小ざっぱりした書斎が昭和と化す。
小ざっぱりした心にあかりが灯る。
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2015年4月22日(水)その2102◆人生の七不思議
暗い地下道を歩いて階段を登り、明るいホームへと抜ける。
屋根なしホームには、静かに煙を吐き出しながら、
楽しそうに足腰に力を溜める蒸気機関車の勇姿。
昭和三十年代の国鉄・両国駅。
おそらく私は五歳くらい。
同行するのは母と兄、そして親しいご近所さん数名。
これから千葉の外房に泊りがけの海水浴に出かけるのだ。
朝めしのメニューさえ忘れる近年の私だが、
この頃の記憶というのはモノクロ画像ながら、かなり鮮明に刻まれている。
ゆっくりゆっくり、しかし力強く走り始める蒸気機関車。
あのワクワクするような信頼性の高い走りっぷりには思いきり憧れた。
当時から逃げ足の速さには定評のあった私は、
ああ、僕もこんな風にしっかり走りたいと、あの時たしかにそう思った。
じっくりと自分の内側に熱い炎を燃やしエネルギーを蓄え、
さらにじっくりと慎重な助走を加え、
満を持していよいよ全速力で疾走するイメージ。
このような蒸気機関車的正統派ヴィジョンを存分に心に刻みながらも、
なんでこの俺さまが人生のあらゆる重要場面において即断即決を繰り返し、
懲りずに失敗を連発する人になってしまったのかとゆーことは、
おれの〝人生七不思議〟暫定第三位!
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2015年4月21日(火)その2101◆大吉
「ジェー、今日はレバだよ」
今朝がた出掛けに玄関でこう云うと、らんらんと眼を輝かせ、
奴はちぎれんばかりに尻尾をふり回す。
中野・桃園のフラメンコ協会の階上に引っ越して一年強。
めちゃ旨の焼き鳥屋がパセオの二軒隣りにある。
半生焼きのレバーなんかは、もうチョー絶品である。
呑まねえことにはとてもじゃないが収まらないアルティスタや
関係者やスタッフたちを時おり連れて来るんだが、
最近は家呑みも多いので週一、二度テイクアウトで持ち帰ったりもする。
「実はもう25年くらい前に、一度だけ来たことがあるんだよ」
フラメンコ協会の創設期に、
口うるさい大御所たちを誘ってここで呑んだことがある。
最年少の私が勘定を持ったのは、例によって爆弾発言の落とし前である。
当時は2ちゃんねるも無かったから、苦情や提言は直接先輩たちに云った、、
ま、今もだけどさ(苦笑い)。
只者ではなさそうな船越英一郎的マスターは、
私の回想を受けてニヤリと笑う。
「ええ、もちろん覚えていますとも」
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2015年4月20日(月)その2100◆十年目の再会
中村雅俊主演『俺たちの旅』は青春のバイブル。
あの頃の私はどんな就職先にも興味を持てなかったが、
その百倍以上、先方は私に興味を持っていなかった。( ̄▽ ̄)
『俺たちの旅/十年目の再会』。
〝青春のバイブル〟のその十年後を描くドラマが放映された。
あれはパセオ創刊まもなくの頃。なんだかんだと
主人公の生き方をなぞるようなそれまでのハチャメチャ人生と、
まるでゾウリ虫のような自分の単細胞さ加減に
痛く苦笑したことを覚えている。
現実はもっともっと複雑だ、所詮はドラマじゃないかと冷静を装いつつも、
この映像のシンプルなテーマは、良くも悪くも
ある強烈な未来イメージを潜在意識に定着させたようでもあった。
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2015年4月20日(月)その2099◆手遅れながら
「真実ってシンプルなもの。
人生で何が大事か分かっていればものの考え方はシンプルになるはず。
それが複雑になっているのは自分の中の何かが滞っている。
すると心配しなくてもいいことを心配したりする。
人間の不幸のほとんどはそこから始まる気がします」
『田園発 港行き自転車』(集英社刊)を発表した作家の宮本輝さんが、
今朝の東京新聞でこんなふうに云っている。
頭では分かっていても、それを日常的なセンスやアクションに反映することは
また別物だから、案外とこのテーマの実践は難しい。
いやというほど痛い目に遭って、あるいは多くを失ってみて、
ようやくその入口に達する。
急がば回れとはこのことかいなと、手遅れながらも微々たる光明。
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2015年4月19日(日)その2098◆生まれ変わり
教養とユーモアの泉、おとつい深夜のタモリ倶楽部でそれと知った。
テレビやラジオのBGMなんかでよく使われるから、
ああアレねと聞けば誰でもそれと分かる琴のポピュラー名曲『六段』。
タイトルの『六段』は、曲が六段で構成されていることに由来する。
作曲者の八橋検校は、何と関ヶ原の合戦(1600年)の14年後に生まれた人だった。
その音楽の先進性とクオリティの高さから、
てっきり『春の海』で知られる宮城道雄(明治27年~昭和31年)と
同時代の音楽家だと思い込んでいたから、これにはほんとにビックリした。
やるなあ日本、ニッポンちゃちゃちゃ!
『六段』の音調がヨーロッパのグレゴリオ聖歌に似ていることから、
その影響を指摘する説があるところも興味深い。
おまけにその八橋検校(1614年 ~1685年)は、
何とバッハ(1685~1750年)の生年に他界している。
時代を超える『六段』のずば抜けた天才性からは、
バッハは八橋検校の生まれ変わりだったのではないか?みたいな
とっぴに楽しい妄想さえ可能だ。
この論法で行くなら、私(1955年~)は
坂口安吾(~1955年)の生まれ変わりである。
もちろん、この論法で行くなら同級生ほとんど全員、
坂口安吾の生まれ変わりである。( ̄▽ ̄)
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2015年4月18日(土)その2097◆バチンのチキリン
「チキリン、おまえの薔薇をひと束もらおう。
そして俺も、おれの恥を花にして売り歩こう」
レストラン〝バチン〟で薔薇を売る、
知恵遅れの花売り少年チキリンを唄うピアソラの名曲。
『チキリン・デ・バチン』(1986年)
作詞オラシオ・フェレール
作曲アストル・ピアソラ
きびしく哀しいが、なぜか人間の故郷が視えてくる。
ペローの赤ずきん、あるいは龍之介や安吾。
聴くたびに覚醒する平衡感覚は、たぶん、信じていい。
歌ありインストありで、いろんなジャンルが味よく録音している。
機会があったら聴いてみてよ。
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2015年4月18日(土)その2096◆闘いながら
「発信すべき何かを欠くもの者は、発信すべきではない」
ペチャンコにこう直言されたのは、ブログを始めた頃の私だ。
ずっと昔から心酔するアーティストのこの言葉には、
いまでも心の真ん中やや上あたりに住んでもらっている。
意識と無意識がピタリ合致する、真実一路のエンタテインメントなアルテを
常に発信する彼女には、グーの音も出ないのである。
自らそれを体現する彼女だからこそ、その言葉は深く美しい。
しかしながら、発信すべき何かを蓄え終えるまでは発信してはならない的な
ニュアンスに対しては、実は今もしっくり来ていない。
何故ならば、まず第一に誰だって最初はド素人なのであり、
また私は現場で闘いながら闘い方を覚えるタイプの人であり、
さらに今現在も欠乏だらけの人であり、
仮に発信すべき何かを私が蓄え終えるのを待っていたら、
その百年前に私が死んでしまうことが明白だからである。( ̄▽ ̄)
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2015年4月17日(金)その2095◆革新的カルメン像
「本当のカルメンは、メリメの描くそれじゃない、私たちなのよ!」
待望の来日公演が迫るマリア・パヘス。
今回演目は『私が、カルメン』。
あのマリパヘが、まさかのカルメンである。
世界中の喝采を浴びたフラメンコの創作舞台芸術。
アントニオ・ガデスを真に後継するのは彼女である。
どう来るか? 今回はちょっと具体的にはイメージできないのだが、
敗戦知らずのマリパヘの舞台には、開演前から身も心もまるごと委ねる。
私は4/24(金)渋谷オーチャード初日に出掛け、パセオ公演忘備録を志願担当。
会場でトムクルーズ見掛けたら、ひとこと感想聞かせてね!
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2015年4月16日(木)その2094◆ド真ん中直球
互いの心が通い合うのは、何よりうれしい。
リアルもネットもそれは同じだ。
例えば、ともにパセオを創るお仲間の大半はネットで出会った。
発信する心と技術。
ネットを通して仕事仲間や生涯の友さえ発見できる時代だけに、
ここはもっともっと意識的にトレーニングされていい。
年賀状や誕生日の定文のようなおざなりコメント、
あるいは私見て見てと自分を押し出すだけのコメントなどは、
互いに通い合うキャッチボールとは程遠く、さすがに誰もがうんざり気味だろう。
その意味ではネットもリアルも同様に難しいし、また難しいからこそおもしろい。
芥川賞作家・平野啓一郎さんのこの直球は、けっこうド真ん中っぽい。
「ユーモアのない人は、どんなに立派でも、どこか尊敬しきれないところがある。
人間関係におけるユーモアの価値がわからない人は辛い。
一々ウケ狙いだと疲れるが、そういうことではなくて、
コミュニケーションが和らぐようなことを言えるかどうか」