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2011年8月1日(月)/その769◇とっつきやすい
軽々しい人間というのがいる。
誰かと思えば私のことだ。
若い頃はこんなではなかった。
人見知りで人の好き嫌いが激しくて、とっつき辛いヤな奴だった。
さらに云うなら、そういう私自身、満足に挨拶も出来ないような、
そういうタイプの人間が大嫌いだった。
そんな展開に飽き飽きした頃、パコ・デ・ルシアに出逢った。
アルモライマのコンパス・旋律に乗って、
取りまく環境とキャラクターをガラリと変えた。
「実存は本質を凌駕する~サルトル」という馬鹿のひとつ覚えを信じた。
最初は自分でないようでしっくりこなかったが、
いつしかそれが普通の自分になっていった。
想えば昔から、肩の凝らないとっつきやすい人が好きだった。
いっしょに仕事をしても、いろんなことを気軽に教えてくれるし、
そういう背中を見ているだけで勉強になった。
遊びも酒も、私にとって楽しい人は皆そういう人だった。
なので、そういう人に私もなりたいと思った。
ただ私の場合は例によって若干やり過ぎがあったみたいで、
丁度よさを通り越して、思い切り軽々しい人となった。
こんなことならもう少しいろんなファクターを、
バランスよく身につけておくべきだったよ。
だが、とっつきやすさを犠牲にしてまで求めるべきものが
今の私には何もないことに、ある意味唖然とするのである。
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2011年8月2日(火)/その770◇歩んで来た道、歩んで往く道
鍜地陽子フラメンコリサイタルvol.5/El Camino2「道」
[7月29日/東京・四谷区民ホール]
【踊り】鍜地陽子
【カンテ】フアン・ビジャールJr.、ファニジョロ
【ギター】フアン・ソト、小原正裕
【パルマ・カホン】伊集院史朗
忘備録を書き始めて二年になるが、この期間中で云うなら、
フラメンコ・ソロリサイタルの最たるものを観た。
混じりっけなしのプーロ(純粋)ひと筋。
休憩なしの85分はガチンコ・フラメンコと過ごすのに最適の時間だと改めて思う。
グアヒーラ、シギリージャ、アレグリアス、ソレア。
この日スロースターターだった鍜地陽子のバイレは
尻上がりにフラメンコ度を増し、
ヌメロの起承転結順に10点満点で云うなら
5点、7点、アレグリ10点、ソレア11点!
底抜けの笑顔ではなくて、意を決し何ものかに明るく不敵に立ち向かうアレグリアス。
愛らしさの薫るグアパな容姿、内側からこみ上げる表情の美しさ、
ケレンのない純正テクニカが渾然一体となったムイ・フラメンコ。
どこまでもカンテ・ギターに寄り添うことから生まれる三位一体の快感。
ここに来て、彼女本人から聞いたリサイタルの通底テーマが
こたびの大震災に対する「祈り」であることを思い出す。
決して超人的でない、むしろ不器用の弛まぬ積み重ねが咲かせたこの世の華に、
ああやはり人間は素晴らしい、信頼するに値するものだという感慨が全身を突っ走る。
満開アレグリに続く決意と希望に充ちたソレアが、
さらに高みにあったところに鍜地の本領を観る。
まるで作為を感じさせない研ぎ澄まされた緊張と弛緩のコントラストは、
ソレア自体の巨大な深遠を浮き彫りにする。
一瞬たりとも誇ることのない技術力・表現力のレベルは極めて高いが、
それらが彼女の本音・真情と曇りなく合致しているところに、
極上のフラメンコが生まれる理由がある。
だが、もとよりソレアに到達点はない。
確信と充実と黒い輝きに満ちた鍜地のソレアは、
この先の際限なき険しい道と、希望あふれる道筋とを同時に明示している。
フアン・ビジャールのカンテは、終始会場にヒターノ・プーロの
シビアでシンプルで骨太な好ましい空気を充満させていた。
名手フアン・ソトの温かく切れ味鋭いギターもそれに同じく。
鍜地の夫君である小原正裕は2ndギターに徹し、
フラメンコのあるべき造形にその身を捧げていた。
かつて別ジャンルで超絶技巧のスーパーソリストとして鳴らした
小原の栄光を知る私にとって、
タブラオで見かけるその献身的変貌が永らく「?」であり、またもどかしくもあった。
だが、先の協会チャリティで1stを弾いた彼の
ギタリスティックの極致に達する艶やかなド迫力は、そういうモヤモヤを瞬時に一掃した。
あの強烈な主張を放つ彼本来のスーパーギターと、
今回のような縁の下の力持ちに徹する黒子的凄みとの対比は、
図らずも不可解だった彼の対極性をひとつに結合させた。
なんと天才小原は、愛と牙とを同時に磨き続けていたのだ。
さて、ソレアを踊り終えたとき、
鍜地陽子の歩んで来た道、歩んで往く道の好ましい輪郭がくっきり視えた。
長引く不況の中、堂々リサイタルを続ける意味と意義とがカッチリ腑に落ちた。
客席に深々と頭を下げる彼女の姿には、
フラメンコに対する敬意と感謝がにじみ出ていて思わず胸が熱くなる。
そうか、アルティスタというのは、客席そのものではなく
観客の心を通してアルテに感謝を捧げるものなのか。
次回はいつだかわからぬが、プーロファンであるなら
鍜地のソロリサイタルは何があっても必見!と覚えておいて、きっと損はない。
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2011年8月3日(水)/その771◇屋良有子の自問自答
計らずも到来した本音の時代。
頑張らねばならぬことは多々あれど、
フラメンコな人間にとっては、まあ、おおむね生きやすい時代だ。
「おおむね生きやすい」。
(↑なぜか「大沼由紀」に似ている)
まず、現実味のないタテマエを無駄にこねてる暇がないところがいい。
次に、本音と弱音の違いが明確になったところがいい。
本音と愚痴は明らかに違うし、フラメンコは建前でも愚痴でもない。
フラメンコはこうではないかっていう、多くの人々が共有できるヴィジョンがある。
ただ、個人の志向・適性はそれぞれ異なるから、
それを無理やりひとつの型にハメればかえって不合理が生じる。
共有ヴィジョンと各個人の対話の結果が、尊重すべきそれぞれの本音ということになる。
つまり、人の数だけフラメンコはある。
そういうガチンコ対話を、つまり「自問自答」を欠く垂れ流しが愚痴であり、
容赦なき「自問自答」の葛藤の末に、各個人から産み落とされるものこそが本音だ。
どのような個人レベルであれ、そういう「自問自答」からは新たなポテンシャルが生じる。
そういう磨き抜かれた本音状態の発露そのものが、フラメンコなのではあるまいか?
なんてことを、屋良有子のインタビュー(来年新年号『自問自答』)を
まとめながら想っている。
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2011年8月4日(木)/その772◇落とし前
「まあ、済んだことは水に流そう。
ただし、このままではこの先の関わりは持てないから」
このままでは夢と勇気と行動の人間まで共倒れになってしまう。
震災から四ヶ月半の間に七回そう表明し、どうやらそれもひと段落した。
担ぐフリしてブラ下がるだけの無気力・無責任タイプとの棲み分け。
一方では、健全なギブ&テイクの協働関係を新築できた人もいた。
義援金の他に、日本の活性化につながる布石は何か?
明るい活力の社会をイメージしながら、一民間の私に出来ることは何か?
誰であれ、あるいは過去がどうあれ、
やる気と志ある人間が思う存分活躍できるスペースを
自分の周囲の環境に新築しようと思った。
まあしかし、結局は怠慢にして傲慢な上から目線であり、
本来ならそう表明する前に、そうならぬようもっと丁寧な先手を打つべきだったろう。
もうええ加減自分で気づけやと無駄に期待しつつ、
いくら云っても無駄だと途中であきらめてしまった中途半端はいけなかった。
清盛や信長、もっと云うならヒトラー暴走の必然性だって少しだけわかるタイプだが、
現在の政治屋やマスコミのように、実現可能なヴィジョンもなく
ただ既得権にすがるタイプの気持ちはまるでわからない。
わかってしまったら生きてる甲斐もないという、牡羊座O型の悪しき典型。
バランス豊かないわゆるまともな人にとっては、どちらのタイプも毒だ。
毒をもって毒を制す。
毒同士で同士討ちするのが、人間界にとっては最も好ましい。
おれもそんな悪の片割れ戦闘員かと思うとちょっぴり泣けてくるが、
そういう宿命が牡羊座O型の性に合ってることも否めない。
だがこの先、もうさすがに冒頭のような空しい台詞は吐きたくはないので、
「仕事も私事も、もっともっと楽しみながら、人さまのお役に立とうぜ」
という普通にシンプルな方針を、
常日頃より、もっともっときっちり体現しながら表明してゆくことにした。
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2011年8月5日(金)/その773◇書記の利
「整理してもらった上に原稿料までいただいちゃって、何だか悪いわ(笑)」
インタビューの相手から逆に感謝されることがある。
生きる感覚は確かであっても、それらを論理として整理するアルティスタは
たしかにそれほど多くはない。
「フラメンコの深化が人生の深化に直結する。
人生の深化がフラメンコの深化に直結する」
こう云ってしまえば何だか四角四面になるが、
彼らの多くは、こうしたギブ&テイクな確信に充ちた生存本能を内包し、
それを軽々と実践する日常生活を確立しているため、
改めてカチッと理論化する必要すらないのだろう。
また、変に理論を固めてしまえば、それはそれで
あくまで自由を希求するフラメンコからは遠ざかる。
「本の内容はどうでもいいから、振付DVDをオマケに付けて!」
意外と多かったこういう練習生の貴重な声が、私のひねくれハートに火をつけた。
表面だけをいくら上手に取り繕ったところで、
実際何の収穫もないことはすでに自分の人生で実証済みだったし、
加えて私は本が好きだった。
10代でパコ・デ・ルシアのギターはかっこいいと思った。
20代でバイレ・フラメンコの振付に頼らぬ生命力に惚れた。
30代で清濁併せ呑むカンテ・フラメンコに砕け散った。
40代でフラメンコとは実人生を生きることだとほぼ見当がついた。
自分の生き様とまるで関係のないところで、
パコ・デ・ルシアの楽譜の表面をなぞっても、
そりゃ空しすぎるわと気づいたのはその頃だったと思う。
「振付のイイとこ取りでは、いくら上手くやってもフラメンコにゃならないよ」
一定水準に達したフラメンコたちが一人残らず口を揃えて云う定番を、
帰納法と演繹法の両輪を転がし、多くの具体例からの俯瞰によって実証しようと思った。
つまり実人生、周囲を注意深く観察すれば発見可能な好ましい真理を、
フラメンコの技法と生き方を通して私自身確認したかった。
そういう実生活の知恵は必ず「人類の叡智」につながるという、
私らしい誇大妄想が気に入ったのだ。
そんなわけで二年前、そういう「書記」を私は志願した。
創刊26年目にして、ようやく私の順番が回って来たわけだ。
そして50代半ばのいまは、
フラメンコとは、
思う存分生きる瞬間を愛するがための、
意外と地道で質実剛健な人生ではないかと、
おぼろ気ながらアタリをつけている。
若干手遅れながら、ぎりぎりセーフって気もする。