夕暮れの鬼子母神
思いのほか実務に手間取り、今日は終電だな、と予感する夕暮れ前。
迷わず散歩リュックをひっつかみ、ボードに80分後の戻り時間を書き込み、さっと小旅行に繰り出す。
この時刻の場合、旅の行方は“雑司ヶ谷の鬼子母神”であることが多い。
パセオから歩いて15分足らずだが、大いに旅行気分を盛り上げたいので、あえて都電に乗りこむ。
「面影橋⇒学習院下⇒鬼子母神前」のわずか二駅。
乗車時間は片道五分足らずだが、この郷愁のタイムスリップが超快感で、路面レールのガタゴト感と懐かしい車窓風景に、はやくも心身ともども癒されることになる。
駅近くのコンビニで晩めしを調達し、鬼子母神へといざなう見事な欅(ケヤキ)並木を歩く。
池波正太郎の時代小説によく登場する、この江戸北郊外に開けたかつての盛り場を一度は訪ねてみようか、というのが鬼子母神参りのきっかけだったことを思い出す。
[鬼子母神へといざなう欅並木]
かつては豪奢な料亭が並んでいたと思われる鬼子母神参道も、現在はその両側がほとんど民家であり、ただ一軒のラーメン屋さんがいぶし銀の存在感を示すのみである。
なまじ昔繁栄した場所だものだから、その寂しさやうら哀しさは余計に募るのだろう…か。
ちんたら歩いても駅から三分で鬼子母神に到着する。
ほとんどひと気のない境内の、フクロウがデザインされたいつものお気に入りベンチに陣取り、夕暮れの鬼子母神の、その落ち着いた佇まいに何やらほっと一息つく。
明治通りや池袋の繁華街の喧騒のそのちょい裏には、そして、時を超えた束の間のスーパージェッターの両眼には、たそがれの鬼子母神の静かなる絶景が淡々と響く。
う~む……悪くないコントラストだ。
江戸も東京もぜんぜん死んでないじゃん、と素直なよろこびがこみあげる。
想い出ひとつないはずの鬼子母神なのだが、何故私にこれほどまでに懐かしい想いを抱かせるのだろうか……。
私が詩人だからか?
それとも単なるふつーの老人性デジャビュ多発シンドロームなのか?
どちらでもかまわんが、勝負とゆーのなら後者の方に持ち点全部を賭けるぞ。
時を架けるおじちゃんは静寂を聴く。
諸行無常の鐘の音を、それでも前向きに心に響かせながらお茶を呑み、ゆっくりとおにぎりをほおばる。