フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

二元中継 [022]

2006年01月29日 | アートな快感


    
   二元中継    



 ほうぼうで溜めた雑用をすませ、午後からパセオへ。
 やり残しの企画書を二つばかりやっつけると、夕方のフラメンコ協会の新年会までにはまだかなり時間がある。
 今日もいい天気で散歩に繰り出したいのは山々なのだが、今日のパーティーはフケるわけにはいかない。発売するDVDのプロモーションで来日中のあのラファエル・カンパージョが、なんと新年会のアトラクションで踊るというのだ。

 いつでもスパークできるタップリとした容積を持ちながら、ほんとに必要な時にだけ瞬時にズバッと決めるのが彼の“粋”である。10あるところをしか見せないで満場の喝采をさらうラファエルの至芸は、しかないところを10に見せたがる人(あーそーだよ、俺のことだよ)には学ぶところが多いのだ。


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 十日連続で書いたので、ブログはひと休みのつもりだった。
 そんではと、ネットのBookmarkをチェックしてみると、大友浩がブログに面白そうな映画コラムを書いている。お題は韓国で記録的な大ヒットを飛ばした韓流軍事映画『シルミド』だ。
 相変わらず鋭い視点でガンガン突っ込んでる模様である。
 尚、この大友浩という尊敬すべき後輩は、私のバッハ仲間であり、ガラにもなく文化庁芸術祭の審査員なども務める高名な演芸研究家なのだが、その実体は単なる笛吹童子(リコーダー)である。

 さて、じっくり読んでみるとこれがチョー面白い。
 ヒマつぶしに超緩色系の迷惑コメントでも書き込んでヤッコさんを閉口させてやろうかと、せっせとキーボードを打ち込む。
 書き上げて、さあ投稿ボタンを押すと、これが送信できない。よくわからんが字数が多すぎたのかもしれん。
 ちぇっ、バチが当たっちゃったよ。

 だがしかし、転んでもただぁ起きねえ、で、ふたたび転んでしまうのが江戸っ子の心意気というものである。
 とっさに私はいい手を思いつく。大友のブログに書いたものの送信できなかったコメントを俺のブログに貼っつけて、それを大友に読ませちまおうという寸法だ。
 これならせっかく書いたコメントを無駄にしないですむし、おまけにブログを一回分儲けることができるわけである。


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 というわけで、本日のメニューは私の投稿コメントです。

 まず、本欄左のBookmarkにある『リコーダー通信』という大友浩のホームページに飛んで、その一番下メニューにあるブログをクリックします。そこで、26日付の[映画『シルミド』とシルミド事件]というのを読んでください。
 で、読んだらまた戻ってきて、この下に書いてあるそれに対するコメントを読んでいただくという段取りです。
 面倒くさそうにも思えますが、また、それを読む読まないは別として「うわっ、二元中継じゃん」みたいに喜んでくれたほうが、お互い傷は少ないように思います。

 尚、ここでの私は明らかに「一石二鳥」を狙っていますが、云うまでもなく私の場合それは「二兎を追うものは一兎も得ず」と同義語であり、結果もまたそのように進行するであろうことは云うまでもありません。では、また明日!


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[映画『シルミド』とシルミド事件]へのコメント
                投稿者[小山雄二]


 大友さんの新鮮にして濃厚な切り口には、いつもながらハッとされられます。毎度脱帽してしまうので帽子をかぶっているヒマもないぐらいですが、今回は特にチョー面白かったです。

 『シルミド』はレンタルとテレビで計二回観ました。
 『シミド』だったら、もっと音楽的な映画になっていたような気がしましたが、どうでしょうか。

 さて私の場合は、例によってドンくさい視点からこの映画にのめり込みました。映画が始まるなり、あっさり隊員に感情移入したのです。
 で、そうしてる内に何かデジャ・ビュだぞと思ったら、その正体は私たちのあの『忠臣蔵』でありました。強制参加と自主参加という極めて大きな違いがあり、とり巻く状況もまったく異なるわけですが、そこは勘弁してください。

 私が『忠臣蔵』を観る時はいつも、討ち入りに参加する下級武士に自分をなぞらえて、大石さんや吉良さんや幕府の動きに注目するのですが、この『シルミド』でもやはり私は比較的弱そうな隊員の立場にのめり込んでそのようにしました。
 「行くも地獄、戻るも地獄」あるいは「前門の大友、後門の虎ンペット」のような極限状況は、まるで普段の株式会社パセオ代表取締役みたいな状態なので、私にはいとも簡単にそれができるのです。

 両方ともいかにも人間らしい残酷な史実ですが、その共通項として、ちょっとだけ嫌な言葉ですが“大義名分”がありました。
 比較的弱そうな隊員の私は、死と隣り合わせの訓練と思わぬ裏切られ展開の中にあっても、その先にある希望の光だけは失わずに、得体の知れない充実感とともに生きていたことを、昨日のことのように想い出します。
 組織(国家)がどんな冷酷な手段を講じようと、個人たる俺はしたたかに目標を設定し直すことで、少なくとも己の命の焔だけは完全燃焼させたろう。そんな心境でした。
 クレイジーな状況とはわかっちゃいるけどやめられない、何とか前向きに適応しちまおうとする、これもまた、人間の業と云うべきものなのかと思ったことでした。(おしまい)


 ところで、お約束の『シックス・センス』はまだですか? 遅くも今世紀中にはお願いしますね。では、また