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No644万田監督を迎え『UNloved』をめぐるフリーディスカッション(前半)

23日、ヨーロッパ映画祭の最終日は、
朝一番に万田邦敏監督の『UNloved』(2001年)の上映がありました。
その後、別室に移り、40人以上の観客と監督とのフリーディスカッションが
1時間近くにわたって行われましたので
その質疑の概要をお伝えします。

Q:スクリーン全体が暗いのが気になった。
セリフに集中してほしいという意図なのか?

A:今日、上映終了の30分位前に会場に着いて、会場をのぞいた時、
僕も最初に「わ、暗いっ!」と思った。
もう少し映写状況がよいと明るいはずだが…。
現場では、明かりをたきすぎないよう指示したかもしれないし、
カメラマンのセンスが僕の希望と一致して
やや暗めの画面になったかもしれない。
セリフに集中してもらいたいからというものではない。
ただ、最後は特に暗い画面が続き、
観るより聞くしかなくて、やや拷問だったかもしれませんね(笑)

Q:ずっと観たかったが、観る機会がなく『接吻』を先に観た。
世間で理解される男女の関係でないこと、
主人公の女性光子が目立たない存在であること、
仲村トオルが少しはじかれている存在であること、
など、『接吻』と本作と構図が似ている。

A:両方とも脚本は妻の珠実との共同作業。
どちらかというと妻がメインでストーリーをつくっており
彼女の趣味が色濃く出ていると思う。
妻がまずオリジナル・ストーリーをつくり、一緒に脚本にしていったが
僕自身、光子のキャラクターにひかれると同時に分からない部分もあったが、
何より、妻がこんなことを考えているんだ、ということを知った
驚きの方が大きかった。(会場笑)

この映画を観た観客の感想は、男女問わず、
ほぼ二つに分かれていて、
光子の生き方がわかるという人と
ありえないという人で、中間はいない。
極端な女性を描いてはいるが、今までの日本映画で、
こういう女性はあまり登場してこなかったし、
肯定的にみていきたいと思った。
妻にとって、
本作で出し切れなかった“おり”みたいなものが残っていて
『接吻』で、同じような関係性が出来上がっていったのではないか。

仲村トオルさんは、はじかれる役をやるととても光る存在。(会場笑)
『接吻』のときは、初めからこの役をお願いするつもりで脚本を書き、
仲村さん自身は
「口をとんがらせて、俺がこういう役か」というような顔をしていた。

Q:ドライヤーの『ガートルード』を連想した。
タイトルの『UNloved』は『Unforgivven』からきているのではないか。
タイトルとは逆に、光子は最後、愛され、許されている。

A:ラストについては脚本の段階で、妻ともめた。
ここまできたら男(下川)が光子のところに帰るのは無理と
僕は思ったが、
妻は「このラストがやりたくてつくった。
どうしても男に帰ってきてほしい」と言う。
それで、僕の方が折れた。
そして、どうやって戻るかを考えた。
ラストについても二つの意見を聞くことが多く
「要らない」というのと、「よかった」というもの。
タイトルをあげられた作品はどちらも作る前に観直した。

Q:本作のDVDが発売されないのは大人の事情?(会場笑)

A:売れないという読みがあったのかもしれない。
韓国版DVDが出されたが、少し画面が真っ青に近く残念。

Q:仲村演じる勝野が光子にプロポーズするシーンでも
視線が交わらなかったり、視線を強烈に意識するつくり。
話している人が背中を向けていたり、視線についての演出は?

A:視線の芝居としては、単純化することを考えていた。
日常的動作による芝居ではなく、
不自然な動き、視線の動かし方から芝居を考えていった。
直線とか、振り返るとか、動きを制限し、単純化して、
芝居を際立たせると同時に、
視線で動きを際立たせたかった。
単純化するとほかにやることがないから
「視線をはずす」「合わす」ことをした。

もう一つは、カットをわって
「見た」「見られた」という関係の時に
視線が重要になるので、
見ている人の込めた思いが伝わるよう、
楽しく、編集をやっていたかもしれない。
最後の言い合いの後、男が部屋に戻って外を見るシーンでは、
見る、見られたでつくっていった、
視線によるカットのつなぎは
独特な雰囲気と強さを生み出すと実感した。

Q:脚本の勝利と思う。
曖昧な男性に対し、女性の人生哲学が出ていると思った。

A:脚本に負けているとよく言われる。
完成試写のあと帰宅して、妻に
「あれは私の『UNloved』ではない。
どうしてあんなふうに撮ったのか」と言われた。
脚本には妻の世界観が出ている一方、
僕は演出としてやりたいことをやろうと思ってやった。
当時はそれでいいと思っていたが、
妻という身近な人間の脚本を料理する側として、
脚本の力を無視しないまでも、無視の一面はあったかもしれない。

妻としては、演出の奇妙さ、変さで見せるものではなく、
女性の生き方についての哲学を表明したいものであり、
観客に最後までみてほしく、
もっと日常的な芝居、動き、表情、照明を考えていたようだ。
『接吻』では、脚本の力や意味が、
より多くの人に観てもらえるように心がけ、
観る人を限定するような演出は抑えた。

Q:光子のアパートで、赤みと青みの照明を併用したのは?

A:ちゃぶ台では赤みの照明を、台所では青みを強くしているが、
実は、僕自身ラッシュを観るまで
あそこまでメリハリをつけてやっているとはわからなかった。
ラッシュを見て、おもしろいなと思った。
カメラマンと照明さんがこの映画の世界観を
ああいうふうにやろうと決めてやったのだと思う。
僕自身の指示ではない。

<後半に続く>
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