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『丹下左膳余話 百萬両の壺』の一場面についての蓮實さんの名文~映画と音楽~

「寺子屋に通い始めたばかりの男の子が、ふとしたきっかけから両親のいない自分を引きとって世話してくれる大人たちに迷惑ばかりかけているのだと察しをつけ、ただ一つの持ち物である大きな壺を胸のあたりにかかえてこの家から姿を消そうと思いたつ。離れの奥まった部屋では、矢場をいとなむ伝法肌のお藤と用心棒の丹下左膳とが、少年の身の上をめぐって何やら口論しあっている。その声を背中でうけとめながら、安坊と呼ばれる少年は静かに裏を遠ざかってゆく。火鉢では、おやつの餅がふくらみ始めている。午後のお茶の時刻で客の姿もまばらな矢場の店内を、安吉少年は店の者たちに見とがめられぬように息を殺して通りぬける。画面の奥には、暇な時間をもてあました女たちが、横坐りの姿勢で客を待つともなしに待っている。壺をかかえたまま表通りに達すると、少年は、うつむき加減に店先きから遠ざかってゆく。裏口の露地の奥まったところから、その小さな姿が画面を横切る瞬間をキャメラがとらえるとき、人は、ああ、この一連の画面の流れは音楽なのだと直観する。いま、自分がたどっているのは、いたいけな少年の家出という物語なのではない。感傷ではなく抒情が、そして哀しみではなく痛みが、残酷さの一歩手前で踏みとどまって奏でるゆるやかな旋律が、見るものを、映画という名の音楽に引きずり込む、事実。少年の短い着物のすそからのぞいた足は、すでに聞えているゆるやかな伴奏音楽と知らぬまに同調している。

 離れでは、左膳とお藤とのいさかいが続き、時間の経過を示すようにこげて煙をたて始める餅のクローズアップが、そうあるしかない適確さで挿入されて見るものをせきたてる。そして、やや俯瞰気味のキャメラが、夕暮れ近い空を映す川の流れにそってゆっくり遠ざかる少年の後姿を捉える。対岸に移ったキャメラが川ぞいの道の家並みを映し出すとき、少年の行く手にみえる土蔵の壁の白さに胸をつかれる思いがする。安吉少年は、左手にかかっている橋のなかほどに達して壺を置き、欄干に小さな手をそえる。

 離れでは、餅のこげるにおいで少年の不在に気づいた左膳とお藤とが、習いたての習字の筆で書き残された別れの言葉を机の上に発見する。左膳は刀をとって表通りに飛び出す。そして、少年がことのほかゆっくりと歩いていた川ぞいの道を、白い着物の裾をひるがえすようにして走る。同じ構図、同じアングルで示される二つの川のショット。ただ、あたりにはいくらか暗さがましているかもしれない。そして、左膳が、夕闇の迫る橋の上に安吉の姿を認めようとするその瞬間、水面に石でも落ちたのか、魚がはねたのだろうか、さっと波紋の輪がひろがる。

 ここでも、人は、音楽の中に自分を見出す。安吉少年の家出から橋での再会にいたるまでのシークェンスは、流れてゆく時間につれて拡がる距離の意識が、適確な画面の連鎖によって甘美な旋律をかたちづくり、あくまでのろい安吉の歩みとそれと対照的な左膳の疾走ぶりや、鏡のような川の流れとそこに一瞬の運動を導き入れる波紋のひろがりといった視覚的な要素が、音としては響かぬ韻を踏み、見ているものの感性そのものに一つのリズムを刻みつけずにはおかないからである。われわれがふと涙を誘われるとしたら、それは、物語的な状況に心理的に共感するからというより、こうした旋律とリズムとに、何かしら抵抗しがたいものを感じてしまうからに違いない。ショットの長さが、そしてキャメラの位置がちょっとでも違っていたら、たんなる感傷的な場面に終ってしまっただろうに、ここには、ただ、良質な抒情がゆるやかに脈搏っているのみである。

 おそらく、『丹下左膳余話 百萬両の壺』のこの場面は、小津安二郎が韻文的と愛惜をこめて呼んだ山中貞雄の資質のみごとな達成を示すものだといえるだろう。抒情的な韻文性といっても、過度の審美主義は周到に排され、水面に拡がる波紋にしても、ほんの一瞬瞳を刺激するだけである。スクリーンには映画という名の音楽が流れ、われわれは知らぬまにその旋律に同調する。ちょうど、わらべうたを歌うともなく口ずさむことがあるように、その音楽に身をゆだねているのである。そして、旋律がとだえたときになって、はじめて、ああ、自分は映画とともに生きていたのだと思いあたるのだ。

 映画といっても、もちろんそれは映画一般ではない。音楽として映画を生きるという体験へと誘ってくれるのは、いまではもう撮られることが稀となってしまった古典的なフィルムに限られている。(略)」

解説「山中貞雄論」(蓮實 重彥)より引用
~「山中貞雄作品集2」(監修 佐藤忠男 加藤泰 実業之日本社)掲載~

なかなかご紹介できなかった、
映画と音楽について、
映画それ自体が音楽である、という、
映画評論家の蓮實重彥さんの名文です。

山中貞雄監督のシナリオを掲載した作品集(絶版)の解説の文章から
その冒頭を引用して、紹介させていただきました。

この文章自体が、見事なリズム、文体で書かれていて、
短い文章で、たたみかけるような感じ、
音楽的な響きでもって、読む者を魅了する。

こういうふうに書けたら、とお手本のような文章。

映画では、安吉少年が、左膳とお藤にあてて習字で書いた短い言葉も
観客が読めるよう、後でそっと画面に映し出してくれる。
でも、この文章では、その文面には全く触れていない。
このことからも、蓮實さんが、言葉でなく、映像として、絵の動きとして、
映画を感じとろうとしていることがわかる。

「欄干に小さな手をそえる」というくだりがいい。
川の水面の波紋、土蔵の白い壁と
本当に丁寧に映画を見ている。

映画は、1935年に公開された白黒映画。
大河内傳次郎、 澤村國太郎、 花井蘭子ほか出演の
心温まるユーモアもいっぱいつまった時代劇で、
本当にお薦め。

何回となく観ているが、今、こうして書き写しているうちに、
映画の場面を再確認したくなってきた。

私なんぞは、映像の流れよりも、音楽にあっさり心をもっていかれるような
およそ感傷的なお客で、
まだまだ修行が足りないのですが、
こういう冷静な分析ができるようになりたいです。

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