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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月4日・新村出の歌

2022-10-04 | 歴史と人生
10月4日は、仏文学者の河盛好蔵が生まれた日(1902年)だが、言語学者の新村出の誕生日でもある。『広辞苑』を作った人である。

新村出(しんむらいずる)は、1876年に、山口で生まれた。出生時の名は関口出だった。
父親の関口隆吉は旧江戸幕府の幕臣で、若いころには熱烈な攘夷(異国を打ち払う)論者だった。若き隆吉は、反対意見をもつ同じ幕臣の雄、勝海舟が馬に乗って通りかかったところを、いきなり刀を抜いて斬りかかったことがあった。馬が驚いて走り去り、勝は無事だった。度量の大きな勝はこの殺人未遂をとがめだてせず、隆吉に手紙を書き、以後二人は友人になった。
明治初期には、各県の長官を県令と呼んだが、隆吉は山形県の県令を務めた後、山口県に県令として赴任し、そのとき出が生まれた。山形と山口と「山」の字を二つ重ねて「出」と命名した。後に新村出は自分の雅号を「重山」と名乗ったが、それも同じ伝である。
ちなみに父親の隆吉は、その後、静岡県知事として赴任し、一家は静岡へ引っ越した。流吉は土地の有力者だった清水の次郎長などとも親交があり、息子の出も次郎長を訪ねたことがあるという。
出が13歳のとき、父親の隆吉が列車の正面衝突事故で没した。出は、十五代目将軍だった徳川慶喜の家扶(補佐する職員)の新村家の養子となり、彼は静岡の中学、一高をへて、東京帝国大学に入り、言語学を専攻した。
26歳で東京高等師範学校の教授、28歳で東京帝国大学の助教授となった。
30歳のころから、英、独、仏などヨーロッパに留学し、33歳のとき、京都帝国大学の教授に就任。以後、京都に暮らして、日本語の古音の研究や、東方諸民族の言語との比較研究、南蛮紅毛人の文献による日本語研究を続け、そのかたわら、日本語辞書の編纂にも力を尽くし、『広辞苑』を編纂した。
1967年8月に没した。90歳だった。

国語辞書で最大のものは、小学館の『日本国語大辞典』全14巻15冊(第二版)だろうが、多くの人に使われている日本語の基準という意味で岩波書店の『広辞苑』を意識しないわけにはいかない。ひとつことばを、これら二つの辞書でひき、比較すると、その個性が知られて興味深い。

日本の現代人は、ことばで説明するのが下手になった。人に何かものを尋ねても、ちゃんと説明が返ってくることはすくない。自分のぼんやりした印象を言うばかりで、それで説明した気になっている人が多い。ことばの説明となると、いよいよむずかしい。
『広辞苑』は偉業である。

新村出は新仮名遣いに反対した。同感である。新仮名遣いは、理屈が通らない、いい加減に決めた変更があるので、迷いやすい。表音主義の表記で日本語を使いやすく、ということだけれど、中途半端になってしまった。そして、現代の日本人は古文を読むのに抵抗を感じるようになってしまった。

新村出が詠んだ歌にこういうのがある。
「国語辞書いまだヴの音ヴの文字を立てずにゐるをいかにかはせむ」(新村出『白芙蓉』)
(2022年10月4日)



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