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日弁連が死刑廃止宣言

2016-09-12 09:05:11 | マスメディア
 日本弁護士連合会は10月の「人権擁護大会」で組織として死刑制度廃止の宣言をするそうです。冤罪が発覚した時、当人が死刑になった後ならば取り返しがつかないこと、そして「残酷な罪を犯したとしても適切な働きかけで人は変わりうる」というのが理由のようです。後者はいささか楽観的すぎるように思いますが。

 背景にあるのはすべての人間は善であり信頼できるとする、美しいけれど非現実的な考え方です。憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に見られる理想主義と共通するものがあります。けど現在の周辺諸国を見る限り、この美しい憲法前文はとても現実世界を反映したものとは言えません。大嘘つきです。

 死刑判決を受ける者は様々です。強姦殺人などで10人以上を殺害した小平義雄や同8人の大久保清もあれば、オーム事件のように教祖の指示に従って罪を犯したものもあります。日弁連の趣旨は彼らにも一律に人権を認めて死刑をやめようということのようです。つまりヒトラーのような人物にも人権を認めるということになります。ヒトラーは数百万人の人権を制限どころか殺害して消滅させました。

 最近、18歳以上に選挙権が認められましたが、誕生日がきた瞬間、選挙するに十分な見識・能力を持っているとされるわけです。考えてみると実に奇妙な話です。15歳でも十分な見識を持つ者もいれば、50歳になっても持たない者がいます。これこそ法が本質的にもつ「いい加減さ」だと言えるでしょう。細かい分類は面倒だからと適当に線を引いて区分するわけです。物理や数学の世界では式の簡潔さ・美しさが重視されますが、法の世界にあっては、簡潔さは現実の一部を切り捨てることになります。

 また心神喪失者の行為は罰しない、とありますが、心神喪失の区分は曖昧で、判定者によって異なる結果が出ることも少なくありません。判定結果によって死刑、または無罪となるわけです。こういった法の「いい加減さ」を認識することも大切です。

 死刑廃止には日弁連が理由に挙げたような利点も確かにあります。しかし廃止論は、何人も殺しておいて自分は生きるというアンバランス、それによる被害者遺族の感情、数十年間に及ぶ刑務所の費用負担(年間約二百数十万円とも言われる)の問題があります。

 とりわけ指摘したいのは死刑になりそうな者を一律に更生可能と考える単純さです。前に触れましたが大金を払ってライオンやキリンなどの動物を射殺して楽しむ人間が存在します。そして殺人を楽しむような残忍な犯罪者も存在します。「適切な働きかけで人は変わりうる」というのは夢物語であり、これはまるで小児の発想です。変わる人もいるが変わらない人もいるというのが現実でしょう。

 理想はあくまで理想であり、現実を理想に合わせて見てしまっては対処を誤ります。諸国民の公正と信義を信頼するのと同じで、まず現実を直視することが前提になります。現実の裏付けがなければ空疎な机上の空論です。

 死刑より無期や終身刑の方が残酷である、という見方もあります。受刑者によってはそういうことも考えられます。彼らには希望すれば安楽死の選択肢があってもよいと思います。また受刑者には精神的な障害を持つ者が多く含まれていると聞きます。この場合、罪は彼の悪意というより、生来の資質や環境要因によって生まれた部分が大きいと言える反面、更生の困難さを思わせます。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」
「残酷な罪を犯したとしても適切な働きかけで人は変わりうる」
 どちらも美しい理念を表していますが、現実への理解が欠けています。司法の一翼を担う日弁連が理念先行では現実的な対応能力が心配です。日弁連が司法における民主主義の実現という理念を重視して推進した裁判員制度を含む司法改革もほぼ失敗であったと私は思っています。
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