松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

四十九日の法要

2013年11月05日 | 親戚

佐倉市にある曹洞宗の長谷山宗徳寺にて故松村三生、戒名省三耕作信士の四十九日の法要を行った、宗徳寺は応永10年(1403)に小弓城主 原胤高により下総国小弓郷柏崎に創建され、元亀元年(1570)に原胤栄が臼井城主となって長谷津に移転され、この地にあった長谷山龍雲寺を合併したという関東ではかなりの古刹だ、室町時代にこの地を治めていた臼井氏を継いで領主となった原氏の菩提寺であり、ご住職は三生の葬儀の際に導師をお願いした。実際に宗徳寺にお伺いしてみると故郷の小さな菩提寺と較べて伽藍の大きさは比較にならない位立派なお寺だった。法要を終えたところ遺骨は宗徳寺のご住職が預かっておこうと仰って戴いたのでご好意に甘える事にした。じつは故郷の菩提寺である山口県光市室積にあるお寺から「他の寺で戒名を授けられた仏を供養する訳にはいかない」と体よく法要と納骨を断られたからである。宗徳寺のご住職や葬儀社の担当の方からは「よくある話」と仰られていたがまさか江戸時代からご縁があるお寺さんからこの様な言葉を戴くとは思ってもいなかった。亡き母の話では祖父や父はおりにつけて相当額の寄付をして本堂の修復等に貢献していると聞いたが金の切れ目が縁の切れ目か?そういえば私個人は何もしていない。後はお墓をどうするか?又ひとつ課題が増えた。松村家の素性は明確ではないが宗旨が西日本では極めて少数派の曹洞宗という意味合いから室町時代末期に関東から安芸国(広島県)に大挙して移住した野伏の一団であったらしい、かの地の過去帳から推察すると水先案内や船による戦闘を生業とし戦国時代の先祖は五軒屋五人集と言われる海賊グループの親玉で海岸を通行する船から金品を巻き上げたり、一攫千金を夢見て江戸時代初期には蝦夷地の探検などもやっている。先祖の悪行が祟ってか松村家はみな短命で古稀を迎えたのは私が最初だ。


利害得失

2013年10月21日 | 親戚
NSの目的の一つとして停年退職すると仕事を続けない限り社会的なつながりが希薄になる、そこで昔の知己と連絡をとりたくてFBに個人データーを公開して希薄になったつながりを取戻す、とこれは結構な事なのだが例えば肉親の近況を伝える必要も無い仕事仲間をまきこんでしまうこともある、公開の範囲を限定すればこれまたSNSとして意味のないことになる、匿名でのブログは7年続けているのでそちらをフォローしてもらえば済む事なのだ、何が言いたいか?というとFBへの記載内容が日々暗くなってしまう事への自戒、当面するのは入院中の次弟の近況だが、仕方ない事だとは思っても今年の春以降身辺に起きる様々な防ぎ様のない出来事、伝える必要があって公開しているのだが当然弟を知らない人には関係ない事である。日々思う事は71歳の爺になってまで「無理する事ないのに」と思いながら身体が元気だから楽しみながら?無理をして第一線で仕事をしている。
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弟二人が相次いで癌に罹患

2013年10月09日 | 親戚

次弟が末弟に続いて「食道がん」との連絡を受けた。昨日の午後会社を早退して都内に入院している本人に面会、そして主治医との治療方針の打合せをした、末弟の葬儀のときに参列するのもやっとという状態で余りにもやつれ方が酷かったので心配していたがやはりという結果だった、進行性の悪性腫瘍が食道から右側のリンパ節に転移、断面の写真には頸動脈を巻き込んで恐ろしい位の大きさになっている。ステージ4Aとのことで放射線と抗がん剤による延命治療になる、最近の法整備で医師はがん患者に症状を伝える義務があるとのことで当人を前に明確な説明をされた、それは仕方ないとして告知された当人の気持ちになってみるとこのような絶望的な話題は他にないのではないかと思われる位残酷な話だ。弟もある程度覚悟はしていたらしく冷静に受け止めていたが、この病気の問題点が浮き彫りにされた形だった。


松村光生のこと

2013年09月22日 | 親戚

9月21日午前10時37分実弟松村三生逝く、ペンネームは松村光生1970年代から1980年代に早川書房から5冊の本を出版してほんの少し知られた作家としてデビューしたがその後は鳴かず飛ばずで夢を追い続けて定職にも就かず親兄弟に依存して過ごした。いわば幸せな人間なのだろうが、脳内出血で居酒屋で倒れて長時間放置されたのが原因で右半身不随、言語障害、左脳内の血留の影響なのか性格がかわり粗暴になり協調性がないため施設を次々に追われて寝たきりの生活、最後は高額な個室の特養におちついた。もちろん費用は全て兄である筆者と次弟が負担していた。毎月20万円の支出は停年退職者にはあまりにも過酷だったが、なんとか10年間支え続けた。その間本人は「早くここから出せ」、「俺は本さえ出せば金はいくらでも手に入る」、「東京都内のマンションで一人住まいをさせろ」などの暴言で我々を苦しめ続けた、悲しい話だが「頼むから死んでくれ」と当人に泣きついたこともある。これ以上の記述は止めるがこの気分の悪さは何だ?と昨日から考えがまとまらない。