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最後の忠臣蔵

2014-01-11 14:52:37 | 社会

吉良邸討ち入り後、切腹を許されず、大石内蔵助から「真実を後世に伝え、浪士の遺族たちを援助せよ」との密命を受けた寺坂吉右衛門。それから16年後、吉右衛門は討ち入り前夜に姿を消したかつての友、瀬尾孫左衛門と再開する。

彼もまた、内蔵助から極秘の使命により忠義を果たすため、ひたすら身を隠し生きていた。
第35回アカデミー最優秀美術賞。

赤穂浪士の討ち入り後に、生き残った二人の武士を描いた、池宮彰一郎の同名小説を本格時代劇、NHK金曜時代劇(連続6回)、NHKBSプレミアム(映画)などで取り上げられ年末に放映されていたが、ご覧になり時代劇を堪能された方も多い事だろう。

これは忠臣蔵のエピローグだが、事の始まりは如何だったのか?私は映画で観た忠臣蔵しか知らないが、知人の中には、書物をあさる者も居る。

色々聞きし見れもすればなるほどと、色んな視点から推測されて、小説家のアイデンティティも刺激されるのだろう。

柳沢吉保が企てた小判の改鋳の総差配をしたのが吉良上野介だったと前に書いたが、それを配下で手伝ったのが、京都所司代だった小笠原長重備後守と京都奉行松前嘉広伊豆守であったが、この二人は柳沢に論功行賞で加増され、それぞれ老中職や江戸町奉行に出世した。

ところが吉良だけは大目付への約束も空手形となって栄転させてもらえなかった。「上杉家15万石」という高家な家柄ゆえか現ナマの小判の分け前は貰ったが、ただそれだけで止まった。

吉良としては面白くない。吉良は「わしはもう降りる、隠居して長男の養子先、米沢に行く」と言い出した。
改鋳は合法的であっても偽金作りの一味である。江戸を避けてわざわざ上方で鋳造させたものの、うっかり吉良の口から漏れ、天下に広まっては御政道の一大事、というので柳沢が口封じに動き出した。

柳沢吉保にグッドアイデアを持ち込んだのが、偽金作りで老中職に出世していた小笠原長重で、「誰か田舎大名をそそのかして、喧嘩両成敗で自滅させるしかござりますまい」と進言した。

そこで柳沢が「田舎大名」浅野内匠頭を呼びつけ、江戸城内で吉良を挑発しろと命じた。要は挑発すれば吉良も抜刀する狙いであった。だが、吉良はついに耐えて抜刀しなかったために失敗。
柳沢は浅野を裏切って即刻討ち首にして口を封じた。

と、まぁーネット「心に青雲」では語られているわけでして、殺す気であればブスっと刺せばいい訳でして、そうはせず、そして吉良は老獪で刀を抜けば、己の身分がどうなるかを良く知っていた。

八切止夫の 「哀れなり・浅野内匠頭」の記述では、

元禄十四年三月十四日。京よりの勅使接待最期の日だった。
観能が始まる直前に、浅野は呼ばれた。大老詰めの御側用人部屋へと御坊主に案内され、何事ならんと敷居で平伏していると、「其の方を見込んでの頼みじゃ」と柳沢吉保に言われた。「はあッ......」浅野はただ畏まった。「本日を逸する訳にはゆかぬ。手段は選ばぬ。其の方は抜刀しても咎めはせぬから、吉良上野介めに乱心させ鯉口を切らせるようせい。よいか一切他言は無用ぞ」との藪から棒の命令。

何故にか聞き返そうとした時には、もう柳沢吉保は立ち上がって背を向けていた。だから浅野は、介添えの家来に告げる暇もなく松の廊下で吉良を見つけて、「待て....」と扇子で突いたが睨み返され「これではならじ」と、相手を挑発するために脇差の先で額を突いたり肩へ軽く斬りつけて挑んでみたのである。

と、ドラマは進んで行くわけでして、なぜか説得力がありますナー。

14日午後3時頃、刃傷に及んだ浅野内匠頭は護送駕籠で江戸城平河門の不浄門より退出させられ、一の関藩(岩手県)田村右京太夫邸へ移された。

駕籠から頭を出したところ即刻、首を刎ねられたの説がある。
大名・旗本の切腹は座敷が慣例であったが、大目付庄田下総守安利は幕府からの上使として目付の大久保権左衛門、多門伝八郎らとともに田村邸を、切腹の沙汰を申し付けのため訪れたが、この状況を見て庭先で切腹をしたの容をとる。

この始末の対応には反対意見もあったが、庄田はその時に「相模守(老中・土屋政直)様、御指図候」と答えいる。

ところが翌15日に浅野家本家の芸州広島藩浅野家から田村家に対して「何故庭先で切腹させたのか」と厳しく抗議され、本家の伊達綱村からは、「武士の情けを知らぬ奴だ、一城の主を庭先で切腹させるとは、武士の作法を知らぬたわけだ、今後絶交する」と叱責されてしまった。

各方面からも幕府の処置に対して抗議の声が寄せられるに至った。庄田と田村は役目を果たしただけなのに、かりにも5万3千石の一国一城の主を庭先で切腹させたかどにより後に庄田下総守は罷免させられている。 気の毒なことである。

もっと気の毒なのが、赤穂藩に一報が届く。城内は「エッ何で殿が!」何がなんだか分からず騒然となる。後にお家断絶である。

これが、世間を騒がせる話となって行くわけです。

さて、今年の年末の忠臣蔵は、どんなお話が出てくるのでしょう。

多門伝八郎の筆記に、浅野内匠頭の心中を察してか、ある歌を捩ったとも云われているが、内匠頭の辞世の句が出てくる。

    風さそう 花よりもなお我はまた、春の名残りをいかにとかせん

口惜しさ、無念さが伝わってくる。

こう云うお話は、皆様の中には、もう御存知の方もおいででしょうが、何か、年末年始は久々に、大和魂のあふれたものに触れたような気が致しました。

 

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