Pangea on the Land

創造と共に
リアルな生き方の記録

限られた時間

2016-11-26 22:08:44 | DIARY
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。
そのディランに影響を与えたといわれるインディアンがいる。
それは、チェロキーのローリングサンダーというメデイスンマンである。
そして、そのローリングサンダーから影響を受けたもののなかに、ある日本人いる。
編集者、北山 耕平である。
僕はその北山耕平から影響をもろに受けた人間なのだ。

最近、音楽を聴いていると、どうやら人には「活きた言葉」を発せられる限られた期間が
あるように僕は思うのだ。
下手くそでも、不器用でも、その時にしか出ない言葉。
発するものが言葉というカタチじゃなくてもいいのだが、それは、たくさんのものを見て、
聴き、それを吸収したり、強く拒絶する時期と重なり、自分からある種のチカラが宿ったものを
生み出せる「限られた時間」が存在するように思う。

自分の過去を思い出してみても、僕の言葉にチカラがあったかどうかはともかく、僕のなかで
言葉のひとつひとつが生き物のように動いているような感覚があった。
確かにそんな時間が僕にもながれ、その時間とともにあったのが北山 耕平という「影響」だった。

当時の僕は取り憑かれたように北山さんの著書を読みあさり、休日になれば千葉、東京、神戸、大阪、神奈川、
山梨など、北山さんがトークやイベントに出没する場所、そのほとんどに足を運んだものだった。

そして、先日、偶然立ち寄った本屋である雑誌を見つけた。
「SPECTATOR Vol.37『 北山耕平』」である。
一冊の雑誌が北山耕平という編集者をテーマに取り扱うという異例の内容で、北山さんが病気で
倒れてから数年ぶりに表舞台に登場したもの。
そして、その数日後にボブディランのノーベル文学賞の発表があり、同じインディアンから影響を
受けた二人が僕の中で交わり、このタイミングを面白く感じた。

北山さんが病気で倒れてから、数年ぶりに北山さんの声を読んだ。
まるで父親の言葉のように懐かしい。

遠くから自分を観察すると、いまの僕は以前のように自分のなかに言葉があふれることもなくなり、
言葉のひとつひとつが随分とおとなしくなってしまった。
僕の「限られた時間」は終わったようで、以前のような「発すること」とは違う時間へ自分が移行したように
感じるのだ。

発することの裏にあるものが「影響」だとすれば、いまは僕自身が「影響」になろうとしているような感覚だ。
誰かに与えるための「影響」ではなく、それは「自己」なのだと思う。

最新の画像もっと見る