肉体の細胞は常に生成と死滅を同時に繰り返しているから 4年だか7年で全く取り替えられてると言っても過言ではない
一般的に思い浮かべる死とは生成と死滅のサイクルがストップすることだから
まぁある意味、雑に考えればシュレーディンガーの猫じゃないけどいつ何時も二元的な観念を背負って一元的な(大きな意味で言えば物質的な死も含め)サイクルの中にいるだけなんだよなぁ
問題は物質的な終わりが訪れた時に記憶を伴った「自我」が切断されてしまうわけだから、自我が自我であり続ける担い手が記憶だとすれば、それが無くなった時に自分は何処へいくのか?または執着として抵抗する様が恐怖だとすれば
植物を観察すれば春は咲いて冬は枯れての生と死というサイクルは嫌でも目にするのだから、二元論者になってはいけない
別に呼吸を操って自我を透明にする必要もない
ただ正しく自我を通じて本質を学んでいけばいいだけで、人にそれ以上の権利は与えられていない

