科学と宗教の共存

意識の覚醒を通して新たなる領域を書いてみたい。

愛の自己展開について

2018-03-07 11:22:01 | 日記
 久しぶりの投稿です。
 毎日、意識が変換しているので、これは書こうかなと思いつつ延び延びになってしまう。微妙に変化していくので、自分の様子を見ている訳です。

 ここに広い意味での考え方の基本を書いてみます。学校教育で教わるものが、どのようなものか、分かるようになると思います。

  モノ⇔人⇔愛(神)
 この三つの領域の関係を意識して、学校教育を越えたことも含めていろいろと語ることができます。

 小学校→中学校→高校→、、人間が知的に成長していく、視野が拡大していくイメージで書くと分かりやすいと思うので、このイメージで書いていきます。
 学校では、人とモノを学ぶと考える。人間関係とモノに関する知識を学ぶ。しかし知的な成長、知識重視に比較すれば、人間関係や心の問題は多分、一定程度成長すれば、停滞か放置された状態で、外の知識、情報を重視した意識になってしまっていると推測します。現状、ネット社会の環境からして、技術、情報、組織、、等の比重が大きいと思うからです。
 教育を通して、こうした外側の環境を重視した意識、心が成長してしまうために、いつの間にか、もの中心、システム中心の意識が当人にとって自然なものとして身について、外側思考で見て聞いて考え語り行動する生き方が確立されてしまう。
 これは上記の関係、モノ⇔人⇔愛(神)でいくとモノ⇔人の部分であり、モノ中心の意識になってしまうと、人、愛(神)は希薄化して意識の中から消えてしまう。いつも何を意識しているか。いつも意識していることが前面に出てきて、体験されるからです。

 ここで、モノ⇔人⇔愛(神)の関係の概略を書いてみる。
 モノ中心の意識とは、モノの知識を重視して、それで考え語り行動する意識である。この対極に愛(神)としているが、この愛は、これまでも書いてある通り、イエス様の愛の教えの愛であり、この愛の理解が深まり、意識に根付いて成長し、いつもこれを意識して語り行動し始めると、この意識が前面に出て、当人を動かすようになる。

 モノの知識が身について、それで考え語り行動する意識と愛が意識に根付いて動き出す意識とでは、異なるものが出てくる。考え方、理解、いろいろと違ってくる。
 モノの知識で考え語る意識は、基本、客観的、視点を変えて云うと、ものに従う意識であるということ。この、モノに従属している意識では、意識自身、心、内面を考えるにしても、いろいろと抵抗が出てきて素直には、分からないとなってしまう。あるいは難しく考えようとしたりする。
 これが愛の意識では、基本、認めるものは現れる、理解することは体験することである、、こうした意識となる。
 みなさんも体験があると思うが、小学校の数学の問題を中学校で方程式で考えると、やさしく解けた記憶があるでしょう。また、高校か大学か忘れたが、方程式にも虚数を導入すると、今まで解がなかった方程式も虚数で解が出てくるとか、視点が変わると、視野は大きく広がるものだと分かってくる。
 同様に、モノ中心の意識では気づかないものが、いろいろとある。いや無数にある。しかし、愛の意識になると、視野は広がり、これまで客観的に理解していた知識から解放されて、認めるものは現れる、、こうした意識が前面に出てくる。そうすると、これまでものに従う意識でつくられていた領域、見える世界が愛中心に理解され、再構成されて、動き出すことになる。、、、また、書きます。
 

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