科学と宗教の共存

意識の覚醒を通して新たなる領域を書いてみたい。

理性から愛へと自己拡大を目指して その五

2017-04-27 10:23:58 | 日記

 日常の生活意識から考えてみたい。普段、意識は漠然としているところもあり、意識化されずに、暗黙のうちにそうであると思い込んで考えていることも多いと思う。

 条件反射的にそうであると反応せずに、自分の意識を明瞭化して、自分を支配している意識がどういう性質のものか、改めて考えてみることは大切なことだと思う。以下、漠然としている生活意識を単純化して整理してみることにする。

 ①私は私、人は人。人それぞれ自分の人生を生きている。この意識では、人はお互いに異なる、別々の人格、別々の存在である。こうした意識で生きている。この意識からは、異なるもの、違いが積み重なっていく。

 ②これに対して、みんなが同じ生命である。我もあなたも共に同じ生命として生きている。心臓の鼓動、呼吸、血液の環流、、ここから生命の活動を常に意識すると、確かに同じ生命、ひとつの生命として生きている、、この意識は出てくる。

 ③これをもう一歩進めて、全体がひとつの生命愛の現れである。イエス様の愛の教え、各自のハート中枢に愛が宿り鼓動している。この愛が意識の前面に出てくれば、異なる意識ではなく、全てに共通する意識がいろいろと前面に出てくる。

 出発点を単純化して比較してみると、結局は、違いをいつも意識しているか、共通のもの・同じものを意識しているかの意識にある。どちらを意識しているかである。いつも意識していることが前面に出てくるからである。

 ④更に加えると、仏教では、恒常不変のものはない。すべては常に変化していて、移りゆくものである。こうした中で、お互いが支え合って存在している。これは全てが空であることを言っている。

 ⑤これに対して、科学では仏教と対照的であるが、常に変化している現象の中に恒常不変のもの法則等を見出し、これに依拠して現象を説明する。恒常不変のものがあれば、これに依拠してものごとを組み立てて、有用性や安定感などが出てくる。理性はここに拠り所を見出している。

 数学の公理から定理が出てくる。このリズムで、これら単純化された意識、あるいは暗黙の意識から何が出てくるか、、ということである。

 これらが出発点であり、これらを前提にしていろいろの意識、考えが積み重なって出てくる。その結果として何が出てくるかを考える。プラスのものが出てくるか、反対に、マイナスのものが出てくるか。前回、既に行き着く先について書いているが、出発点と帰着点をセットにして考えると分かりやすいであろう。

 原因と結果あるいは手段と目的をセットにして考えるようなものである。今、五つの単純化された意識を上げたが、この中で④と⑤は恒常不変のものがあるとするかないとみるかで対照的である。
 これを単純に考えると、あれどちらが正しいの?と思うかもしれない。しかし、どちらかが間違いだとは思わないこと。どちらも成り立つと考えてよいのである。理由は、いくつかあるが、例えば、数学にも出てくる。平行線の公理の違いから、ユークリッド幾何学と異なる非ユークリッド幾何学がつくられている例もある。

 数学の場合は、客観的、すなわち、考える主体と対象が分離されて、対象を取り扱う意識であるが、上記五つの単純化された意識の違いは、主体と対象を合わせて考えると、何が出てくるかということの違いがある。

 これは前回も書いたが、宗教の教えでは、教えを客観的に比較するだけではなく、それが各自に体現されてどういう結果がでてくるかが大切なのである。昔、オーム真理教という宗教団体があったが、その教えを身につけた信者がどうなったかを考えてみると分かると思う。

 これら五つの単純化された意識は、性善説の領域で考えているので、こんな感じであろうと書いたが、性悪説を生み出す考え方もいろいろとありそうだ。平和ボケ、善人ボケにならないように性悪説も書くことが必要であろうと思うので、時々、悪の性質も書いてみようと思う。今回はこのスタート地点を書いた。こうして意識を明瞭化すると、今後話を進めるにも、分かりやすくなると思う。







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