ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

子供たちの食事の話(塾通いの情景)

2005年03月21日 22時41分19秒 | 暗い事件について
仕事の長引いた日など、とても気になる光景がある。

夜の9時10時という時間に、小学生が駅のベンチで弁当をつついてること。

僕自身、小学校から中学校への受験を経験したが、その頃の記憶と付け合せてみても、とても気になる。

食事は、とても大切なことだ。親は食事を通して様々なことを伝えている。母親の愛情を一番感じられるのが手料理の食事なはずだ。父親が料理をする家も多くなっていると思うが、親が手数をかけて作ってくれるものを皆で食べるというのは、大きな意味があると思う。

特に幼少期の夕食は、その日の出来事を消化してくれる時間であったように思う。変な表現かもしれないが、家族と食事することで、外での対立や小さな悩みごとが少しづつほぐれていたように思うのだ。ストレスを感じるような出来事があっても、食事が終わるとちょっとほっとしていた気がする。家族ともめごとがあっても、少し和らいだ気がする。

塾通いはこの時代当たり前のことになっいるが、夜遅くにコンビニを徘徊する小学生を見ると、どうも良いこととは思えない。学校は学校でろくにテストもしないで、評価を曖昧にし、子供たちの直接的な競争や比較を回避しているが、結局、塾の存在がいわばアンダーグラウンドとなって彼らに厳しい現実と殺伐とした感情を与え続けているように思えてならない。

学力が大切なのは分かるが、テストの受け方や点数の取り方を教えられた昔の経験からすると、現在の塾が進学を目的にしている以上、本質的な学習ではない気がしてならない。

ある家庭教師提供会社のCMで、コンビニで弁当を買って塾で食べる少年が、「週末以外は塾で食べる。おかあさんの料理は好きだ。」と話すシーンがあった。沢山の子供たちが同じような状況の中で、暖かさを感じずに育っているとしたら、彼らは果たして、優しい心を育んでいけるのだろうか?

ある少女が、友達と遊んできた話をお母さんにしていたのに出会ったことがある。彼女は友達と楽しく一日遊び、その子が週末はいつも遊ぶと言っていたことを話した。すると母親が、その子が遊んでいるといっても、本当は勉強しているかもしれないし、皆そうして周りの子を追い越していくのだから、それに合わせてはだめだと優しく諭していた。この内容は印象的だった。

この例での母の話は、子供たちにとって良いアドバイスなのだろうか?

結局、子供たちは殺伐とした親の感覚の下で、友達さえも「信じるな」と教えられ、孤独感を募らせては居ないだろうか?

夜遅くのコンビニの、或いは手作りとはいえ駅のホームでぽつんと食べている夕食が、そういう思いをさらに加速させているのではないか・・・・
それと引き換えに育成される学力が、彼らに幸せをもたらすのだろうか?

学力より、情緒の育成をと、塾を拒絶するのは、彼らにとって不幸なことなのか?

僕は、子供たちに塾を勧めない。過去に経験したこと、さっきの母子の話など、決して彼らに良いものを与えないと考えているからだ。子供たちが本気で学ぼうとした時、本質的な学習ができるように、考えてやりたいと思っている。それが手遅れになったとしても、彼らの健全な精神の育成を優先したいと思っている。