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高山農場管理棟 ~1965年前後尾幌川中流域211120

2021年11月20日 16時05分00秒 | 地域
> 高山農場管理棟 ~1965年前後尾幌川中流域211120

 旧高山農場跡。管理人を務めておられた一家が農地改革後に経営を継承された。そう聞かされたのは平成二〇年前後のことである。

 風景を見聞することのあった1955-65年。
 この時期、国土地理院図○印の域内に4軒の畑作経営農家があった。なかの一軒は総二階建て、板壁を黒塗りで仕上げ、四隅の柱をはじめ露出した支柱材を白塗りで仕上げたお洒落な住宅であった。後に知る。「高山牧場の管理人を務めておられたお宅」。近隣に今も建材。開村以来の移住者三世の方が教えてくださった1)。
 
 当時の主経営は畑作。
 しかしながら主力は牽引馬の飼育で春から秋にかけての農作業馬、冬場には周囲の山林を尾幌駅へ集材する運送作業にあたっておられたと記憶する。住居の周囲に数町歩の畑作地があった様子で、数反の畑に豆、大根、馬鈴薯などの栽培を営んでおられた。残る用地が牧草栽培地で、牽引馬の飼育や一部乳牛の飼育用草地に宛てておられたと見受けてきた。この経営単位はある意味、近隣農家とも類似した、その時期の標準スタイルではあったが、前述のある意味で瀟洒 しょうしゃ あかぬけした=住まいに「特別な風景」を想像したことである。
 
 1966年を境に風景の変貌
 さきに紹介した地理院図域内の残り3軒の経営体。いずれも1966年を前後する時期に離農された。2000年8月に出版された、『北海道酪農の公的支援と振興施策』で、「乳牛飼養普及期(~1965年)」と「選択的拡大期(66-70年)」に位置する時代の事象となっている。
 うち国道44号線上の経営体では、後継予定者が地域の青年団長を務めておられた。63年頃アメリカ合衆国へ派遣された農村青年研修団の一員で、渡米されたと記憶する2)。もとより筆者が直接にお会いする年齢ではなく父のもとに、派遣の挨拶、帰朝報告で夜を徹して語り合っていた思い出がある。前途にみちた抱負を語っていた様子であったものの、現地には今、そのヨスガ 手がかり=すら見当たらない。派遣青年の目に映じた点はなんであっただろうか。

 草地改良、乳牛多頭飼育化・流通装置への投資。
 派遣された青年の目に映じた点は、USA農業の粗放飼育の低乳価価格生産。脳裏をよぎった点は、四半世紀後の根釧農業の風景であった、か。1965年を境に学部学生の耳にも、風聞が届くようになった。「泥炭湿地を草地にかえる草地改良が始まる」「(牛乳の)クーラーステーションが配置され、牛乳集荷は搾乳から出荷まで人手に触れぬ装置にする」。国、地方公共団体の補助もあるが、「農家の負債が増えるはず」。移住当時は広すぎた開拓地も、今後は「これまでの数倍の土地で経営が進められる」。経営拠点の移転も側聞するようになった。「昭和40年に、父が単身で通っていました」「47年になり家ごと移りました」。厚岸町酪農業協同組合の監査役を務めたお宅の後継者は、令和2年秋にかく述べてくださった2)。経営拠点をJR花咲線・糸魚沢駅北部に移転された当時の回想である。
 1)、2)尾幌東部 3)尾幌西部(211120 ひろつぐ記)。
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