光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

日の出は感動的だが、思ったような絵にならないときも、春かも知れない。

2015-02-03 13:52:58 | 散策
  曇り。


  朝は日が出た。これはすごいという感じはなかったが、一応カメラを持った。何にも画像で

  面白いものがないからだが。

  ただ日の出の様子、目で見るのは出来るだけ止めているし、また見ない方がいいに決まっている。

  カメラにもよくはない。これたしかにそんな気もする。説明書にもある。

  人間の目と同じ。

  これは困ったと思うが、もうそんなことを気にしてもしょうがない。


  さらに困ったことに、カメラにも賞味期限で、使わないとだめになってゆくようで、

  使ってもだめになってゆく。そうは持たない。

  使い捨てカメラにみたいな運命に、デジタル・カメラはある。

  もっともフイルムカメラは、骨董にもならない。



  文字を書いていると、文字の運命というものを思う。


  昔は活字だと、これはどこどこの印刷所のものだ、というのが奥付けを見ることによって

  わかるようになった。最も、そうは多く印刷所を知っているわけでなく、今と昔ではまたかなり

  違うようでもある。

  2、3の印刷所には、実際に行ったことがあるが、まー中で何がおこなわれているか、こうゆうことは

  わからない。

  すでに、写植の時代でもあったが、今は何がどうなっているのか全然わからない。



  これは印刷される文字の話だが、最近は人の書いたような文字も印刷されるようで、これは生きている

  ネコと同じような、数字の世界で生きているネコちゃん、を映像を見るような感じだ。

  
  さほどかわいいとは思わない。滑稽ではある。


  自分の字は恥ずかしくて、とても人様にお見せ出来ない。もっとも、そうゆう時代ではなくなったし

  必要性もどんどんなくなって、それでも自筆で書かないといけないときはある。

  一体にいつから文字を書いたのか、この記憶はないが、ひらがな、漢字、カタカナ、今はどれもあれっというような

  記憶の曖昧さがあって、この前はついに「ひらがな」がどうだったか、忘れた。


  文字を書くということが極端に少なくなって、キーボードに向かっていても、これも文字書く練習にならず

  文字を、ひらがなもカタカナも、ローマ字も漢字も、英語のつづりもどんどんと忘れてゆく。

  ひらがなを、あいうえおというように並べて言葉に出すのは簡単だが、おえいうあと反対に並べて

  すべてを言うことが出来るかというと、途中で止まる。厄介なことである。

  数字にもいろいろあって、厳密であるのかどうかわからないが、たとえば4という数字。これに切れ目が

  あってはいけないとか、数字の1も、一番上のところを少し折るというのもだめ。一本の直線でないと

  と、いうこともあるようだ。



  人それぞれによって、文字の形が変わる。で、大体人はいつごろ自分の書体というのを完成させるか、

  というのに昔から興味はあった。父も母ももう書体、字のスタイルは決まっていた。それから姉がいるが

  今も子供のときと同じような字を書く。


  もちろん、年齢とともに、字は多少は変化するようで、最後には間違った字を堂々と書く。それでも

  結局、PCにさわる、あるいはワープロなどは関係なかったので、字を忘れるのももう晩年。

  父も母も小さい字を書いていた。年賀状ももちろん、普通に文字を書いていたので、それでも

  ある程度、漢字は残っていた。



  自分のことだと、これは字体がなかなか定まらないというか、ものすごい字を書いていたことがある。

  これは日記をつけていたことと関係があるが、酔っ払って書くという字は、もう見ることはないが

  昔むかしに見たときも、これは我ながらひどい、という字を書いていた。中身はいうに及ばない。

  これはとても、おおやけに出来るようなものではなく、それでも人は酔うと平気で、どんなことも

  書けるのだなと思ったのだ。が、明らかに、自明的だが、作家といわれる人あるいは文字を書いて

  生活している人に、通常なかなか書けない表現はあっても、これはこれで特に問題はないのだから

  やはりすごい。もう一度書くと、比較する対象ではない。


  もう4、5年前からか、文字はかけるが字がグチャグチャといってよく、自分で後で、まるで小学生の文字を

  直すがごとく、自分の文字を直さないといけない、という状態になった。

  ハガキくらいだと大丈夫で、それ以上長いとだめだった。

  今はその字を書くのも難儀する。



  後はこれもおかしなものだが、たとえば感想文とかを書くとき、原稿用紙一枚目は、どうにかきれいに

  書こうという意志はあったが、2枚目になると、何かが外れるのか、これまたグチャグチャになるという

  習慣が最初からあった。


  私宛にはなかなかなかったが、母宛のハガキかあるいは手紙に、まことにきれいというか、美しい文字を

  サラサラと書く人がおられて、これを見ていて一体にどうゆう精神の持ち主だろうと思うときも多々

  あった。字は人の何かを表わす、とは昔からよくいったが、これにもしかし、テクニックというのがあるようで

  即心根とか、あるいは性格を表わす、ということはないようである。

  おしゃべりも同じ、性格は180度反転、獰猛、狡猾。こうゆう例もやはり多々。


  適当な字を書くこともままならず、ひらがなを忘れる状態になって、国語辞典を引く。

  こうゆうところまで落ちると、もう精神状態もくそもないな、と思うが、それでも

  
  やっぱり字を書かないといけないというときはさらに増えるようで、これはまた時間だけが過ぎてゆく。


  日の出。




  その一。




  その二。




  その三。なかなか思うような絵が出ない。




  その四。




  その五。きれいな色が出ているはずだが、濁っているようで、また思う色でもない。




  その六。




  その七。





  その八。




  その九。




  その十。


  カメラは2台で、これも順番に撮っているが、並べ方は、時系列になってなく、カメラによる色の違いは

  しかしわかるかも知れない。


  日の出の位置は、これも記憶は曖昧だが、やはり明らかに東に移動している。





ドンヨリとした曇り空、朝が夜のようで、すぐに夜明けが来るか。

2015-02-03 07:07:19 | 散策
  曇り。


  それでも、外の気温、富山地方気象台のアメダス、気温は午前6時で、0.1℃。

  暖かいか寒いのか。


  きのうも月が煌々と輝く空があった。お付の木星も見えた。

  でも明らかに、木星と金星では、その輝きも色も明るさも違う。


  どっちも魅力的だが、圧倒されるのはやはり金星の明るさ。


  かなり丸くなった月も完全に見えていたが、やっぱり雲が出てその後は月明かりもわからないくらいで

  でも雲は白っぽく、背景に月の輝きがあるという感じはした。


  今朝の新聞、地元紙だが、マンサクの花が咲いて、春はそこまでとある。

  一番近いのが春で、春以外にない。夏も近いが、2月は一番寒い季節。

  春が来ても、まだ暖かさは感じられない。


  春は風の季節でもあって、黄砂が降る季節でも。

  春一番で、そこにそよ風が吹くことはない。

  春一番が、暴風雨にならないことを祈るだけで、空が真黄っ黄にならにように

  同じく祈らないといけないだろう。


  中東の砂漠の白い砂が降ってこないように。

  真っ黒な炎が、ここまで届かないように、これまた祈りを何かにささげないといけない。

  これを、おもてなしは、出来ない。


  これは色がよかった。













 

  しばらくぶりに、小さいころここで育ったネコ、チャトラが来た。

  窓から見えるところで待っていて、こっちを見て走ってきた。

  嘘みたいな話だ。

  コンコロコンな体格、お腹もえらく横に張り出ている。

  でも結構すごいスピードで走る。